■当主を支えた兄弟
◇武敏(たけとし)
12代武時(たけとき)の九男で13代武重(たけしげ)の弟です。兄武重を支え、一族の結束を象徴する人物の一人です。
建武3(1336)年3月2日、武敏率いる菊池氏・阿蘇氏を中心とした南朝方と足利尊氏(あしかがたかうじ)率いる北朝方が、現在の福岡市多々良浜(たたらはま)で激突、多々良浜の戦いが始まりました。
当初は数で圧倒した武敏勢でしたが、山手から吹き降ろす強風と大砂塵に阻まれます。松浦(まつら)党の裏切りなど不運が重なり大敗した武敏でしたが、その後も九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)などを相手に、九州各地で神出鬼没の活躍を続けました。
当主武重の留守中には一族をまとめ、14代武士(たけひと)の後見役を務めたといわれていますが、どこで、どのようにして亡くなったのかなど、詳しくは分かっていません。墓は大分県宇佐市にあり、武重の墓と同じ亀趺(きふ)の墓です。
◇武澄(たけずみ)
15代武光(たけみつ)の兄で、武敏と同じく武重の弟です。当時、当主の武光は九州中部から南部の北朝勢と戦っていたため、武澄は主として北部の北朝勢に当たり、めざましい活躍を見せています。
正平9(1354)年8月には、島原半島の多比良(たいら)城(轟木(とどろき)城)を攻め、9月9日にこれを落としました。翌年8月には、懐良親王(かねながしんのう)を奉じ、肥前(佐賀県)の千葉胤定(ちばたねさだ)を降伏させます。さらに筑前(福岡県)で武光の軍と合流した後は、豊後(大分県)の大友氏泰(おおともうじやす)を降します。
勢いに乗った菊池勢は、宇佐を落とし城井を攻めて宇都宮守綱(うつのみやもりつな)も降伏させ、ついには博多へと進軍しました。この勢いに押された一色範氏とその子直氏(なおうじ)、範光(のりみつ)らは、長門(山口県)へと敗走していきました。
当主である弟武光を支え、九州制覇に向けて戦い続けた武澄でしたが、大願成就を目前にして病により1357年頃、その輝かしい一生を閉じました。
墓は、武光と同じ熊耳山正観寺(東正観寺)にあります。
問い合わせ先:菊池プロモーション室
【電話】0968-25-7267
<この記事についてアンケートにご協力ください。>