■各地に刻まれた一族の足跡
▽託麻原(たくまばる)の戦い
熊本市水前寺競技場の駐車場に、「天授勤王戦跡(てんじゅきんのうせんせき)」の碑が建っているのをご存じでしょうか。この石碑は、天授4(1378)年に、この付近一帯が「託麻原の戦い」の舞台であったことを伝えています。
この時、一族を率いていたのは17代武朝(たけとも)です。武朝は、祖父15代武光(たけみつ)と父16代武政(たけまさ)を相次いで亡くし、元服前の12歳で家督を相続。この戦いの時もわずか16歳という若き当主でした。
この3年前、水島の戦いの勝利で勢いを回復した武朝は、後征西将軍良成親王(りょうせいしんのう)や盟友阿蘇惟武(あそこれたけ)と共に肥前(佐賀県)へと進軍しました。しかし翌年、今川了俊(いまがわりょうしゅん)に協力した大友親世(おおともちかよ)・大内義弘(おおうちよしひろ)連合軍と蜷打(になうち)で大激戦を繰り広げますが惨敗。
後見役の武安(たけやす)(武光の甥)や武義(たけよし)(武光の弟)、さらには惟武までもが討ち死にし、親王と武朝は、命からがら菊池へと敗走することとなりました。勝利を収めた今川の軍勢は、勢いそのまま肥後へと攻め入りました。
天授4年9月18日、了俊とその子仲秋(なかあき)の軍は、藤崎台(熊本市)に布陣。この戦いでは、今川軍は直接菊池には攻め込まず、実に1年半を費やして山鹿から今の熊本市へ入っています。
そこへ、了俊の誘いに応じた大友・大内の軍も参戦し、北朝軍は大軍をもって菊池へ攻め入る構えでした。菊池軍も良成親王と共に熊本へ向けて進軍、決戦の時が近づいていました。
9月29日早朝、ついに戦いの火ぶたが切られました。武朝率いる南朝軍は数に押され、戦況は北朝軍有利に進みます。多勢に無勢、南朝軍は多くの戦死者を出し、とうとう武朝自身も傷を負ってしまいました。
この時、健軍宮(たけみやぐう)(健軍(けんぐん)神社)からさっそうと姿を現したのは、良成親王でした。まだ20歳にも満たない親王が自ら陣頭に馬を進めて奮戦。その雄姿に奮い立たないものはなく、南朝軍の士気は一気に高まりました。ついには、了俊・仲秋率いる今川軍を肥前へと退却させたのです。
「天授勤王戦跡」の文字は、明治のジャーナリスト徳富蘇峰(とくとみそほう)の筆になります。蘇峰は小説『不如帰(ほととぎす)』で有名な蘆花(ろか)(妻は隈府出身の愛子)の兄です。塔の両脇のレリーフには、武朝と良成親王らの奮戦の様子が彫られています。
また、帯山(おびやま)西小学校の敷地内には、小学生にも分かるようにとやさしい文章で書かれた戦いの説明板が立っています。
他にも、熊本市東区尾ノ上(おのうえ)(通称:自衛隊通り)のサンパレスさくら通りには、この戦いでの戦没者を慰霊するための「八万千部之碑」がありましたが、撤去され、現在は残っていません。
戦没者数8万1千人とは、かなり大袈裟ですが、それほどの激戦であったことを物語る数字ではないでしょうか。
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