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《シリーズ》南北朝・菊池一族歴史街道(17)

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熊本県菊池市

■福岡市の「菊池神社」(博多合戦)
「菊池神社」というと本市にある神社を指すことが多いと思われますが、福岡市にも菊池神社があります。城南区七隈(ななくま)にある「菊池神社」(胴塚)で、12代武時(たけとき)を主祭神として祀っています。
元弘3(1333)年、後醍醐(ごだいご)天皇が全国の御家人に対し、鎌倉幕府打倒を呼び掛けました。これに呼応し、兵を挙げたのが武時です。博多合戦と呼ばれる戦いです。
この戦いで、武時は首を切られたにもかかわらず、それに気が付かないまま馬に乗って数キロ駆け続けたという伝説が残っています。首を失った胴体が倒れたとされる場所に、この菊池神社が建てられているのです。
なぜ武時は挙兵するに至ったのでしょうか。6代隆直(たかなお)の時代、やむなく平氏方についた菊池氏は平氏の敗北とともに鎌倉幕府からは冷遇され、8代能隆(よしたか)が所領奪還を目指した承久の乱でも敗北、本領の一部を失います。
本領回復、所領拡大の好機と思われた元寇(蒙古襲来)でも、10代武房(たけふさ)をはじめとする一族の奮闘にもかかわらず、わずかな恩賞が与えられただけでした。このような積年の幕府への反感が、挙兵へとつながったとされています。
護良親王(もりながしんのう)(後醍醐天皇の子)の令旨(りょうじ)(皇太子などの命令を伝えるために出した文書)を受けた武時は、阿蘇氏や同じ九州の御家人である少弐(しょうに)・大友(おおとも)氏と挙兵の密約を交わしました。これに対し、九州における幕府の拠点「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」の北条英時(ほうじょうひでとき)は、これらの動きをけん制するため御家人たちを博多に招集しました。
襲撃計画が漏れていることに気付いた武時は、3月13日寅の刻(午前4時ごろ)、博多の町に火を放ち、襲撃を促す使者を少弐・大友へ送ります。ところが両氏は土壇場で心変わり、幕府方に寝返りました。これに憤怒した武時は、窮地に立たされたにもかかわらず、単独で探題襲撃に踏み切ります。
しかし、少弐・大友軍に背後を突かれ、袖が浦へと退却。敗北を覚悟した武時は、嫡男武重(たけしげ)を呼び寄せ、菊池へ帰るように告げます。ともに戦うという武重を説得、一族の行く末を託し、辞世の歌を遺すと(袖が浦の別れ)、70騎あまりを率いて再び鎮西探題に攻め入りました。
襲撃開始からわずか4時間後の辰の刻(午前8時ごろ)、全員が壮絶な討ち死にを遂げることとなったのです。
首が落ちたとされる場所には、菊池霊社(首塚:福岡市中央区六本松)が建てられています。こちらも武時を主祭神として祀っています。

問い合わせ先:観光振興課
【電話】0968-25-7223

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