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連載 高森にわか

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熊本県高森町

高森町教育委員会では、にわかの調査事業を実施し、令和5年度に高森のにわか調査報告書を刊行しました。広報たかもりに連載し、にわかの調査を通じて、ここが面白い、特筆すべき点を町民のみなさんに紹介します!

■第6回 横町祭礼文書(よこまちさいれいもんじょ)からわかること
元高森のにわか調査委員 堤将太
(熊本県博物館ネットワークセンター歴史分野職員)

令和6年(2024)3月31日に『高森のにわか』の文化財調査報告書が刊行され、その中で『横町祭礼文書』(横町文書)と呼ばれる個人宅に保管されていた文書群について関連語句の抽出を行いながら紹介しました。横町文書には、現在の横町向上会に繋がる江戸時代後期から昭和時代にかけて活動した青年組織(横若組(よこわかぐみ)-高森町青年会第五分会-横町向上会)が書き継いだ活動記録や会計簿が残されていました。連載第6回目となる今回は、横町区に残る青年組織の活動記録・会計簿を調査したことでわかった2つのことについてお話しします。

●向上会の役職
現在、向上会の役職は、「三役」と呼ばれ、「会長」、「副会長」、「会計」の3つの役職からなります。では、それ以前はどのような役職で呼ばれていたのでしょうか。横町区では、安政2年(1855)に「若者頭(わかものがしら)」(若頭(わかがしら)又は若イ者頭(わかいものがしら)、「世話人(せわにん)(方(かた))」が使われていました。明治8年(1875)には、「副役(ふくやく)」という役職が登場し、明治12年(1879)に「頭後見(かしらこうけん)」、明治13年(1880)に「惣根締(そうねじめ)」、「伍長(ごちょう)」、「拾長(じゅうちょう)」、「芝居道具一式(しばいどうぐいっしき)見締方(みかじめかた)」、「祭品(さいひん)見締方(みかじめかた)」、「灯提支配方(ちょうちんしはいかた)」、「俄大隊長(にわかだいたいちょう)」と一気に役職が増えています。明治19年(1886)になると「書籍方(しょせきかた)」、明治35年(1902)には、「若長(わかちょう)」、「器具取締長(きぐとりしまりちょう)」、「飲食水事長(いんしょくすいじちょう)」、「伍長(ごちょう)」と従来の「頭(かしら)」や「方(かた)」表記から「長(ちょう)」へと変更が行われ、明治42年(1909)では「会計」を記録上で見ることができます。大正2年に横若組から高森町青年会第五分会へと再編されると、「高森町青年会第五分会規則」によって役員は「分会長(ぶんかいちょう)」、「副分会長(ふくぶんかいちょう)」、「会計」、「評議員」の役職が固定化されましたが、大正14年(1925)には「顧問」や「理事」「幹事」が新たに置かれるなど適宜変化していました。大正15年(1926)に横町向上会が誕生した後は、昭和5年(1930)に現在の三役の役職名が登場しており、以降は現在の名称が定着したようです。

●新型コロナウイルス感染症だけではなかった風鎮祭余興の延期・中止(横町祭礼文書より)
令和3年(2021)の風鎮祭は新型コロナウイルス感染症の影響で中止となりましたが、過去にも大きな出来事で余興が中止または延期しています。
(1)慶應2年(1866)第二次長州征討による小倉出夫(しゅっぷ)のため俄を延期し、山引きは中止
(2)明治12年(1879)熊本県内でコレラが大流行のため余興を延期
(3)明治27年(1894)日清戦争開戦により、造り物のみ実施し、俄・山引きは中止
(4)明治32年(1899)伝染病流行による県知事訓令(くんれい)のため俄・山引きを中止
(5)大正元年(1912)明治天皇崩御のため余興を中止
(6)大正2年(1913)昭憲皇太后崩御の大喪中のため余興を中止し、式典のみ実施
(7)昭和12年(1937)から昭和20年(1945)までの9年間は戦争による影響で余興を中止し、式典のみ実施。
上記から風鎮祭の余興が日本近現代史に起こった出来事の大きな影響を受けながら現在へと継承されてきたことがわかります。
今回ご紹介した2つは過去に記録され、継承した方々がいたために読み解くことができたことです。現代の私たちも記録を残し、継承することで次代に現在の風鎮祭とその余興の様子を知ってもらう方法の一つとなり得ると思います。
最後になりますが、長期間の文書群の調査に協力していただき、大変御世話になった保管者と調査事業にご協力頂いた皆さまに心より御礼を申し上げます。

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