◆箱根駅伝を応援しよう
令和6年1月2日(火)・3日(水)
平塚中継所やテレビで熱戦を応援しませんか。市内にキャンパスがある東海大学と、平塚市と交流を続けている神奈川大学など23校が出場します。
◆早稲田大学 大関篤史さん(70回・71回大会)
平成6年の第70回記念大会と平成7年の第71回大会で、早稲田大学の選手として箱根駅伝を走った大関篤史さん。地元・平塚を走った思いを聞きました。
私が箱根駅伝を意識するようになったのは、昭和62年に始まったテレビ中継がきっかけです。当時は県立平塚江南高校の陸上部にいたのですが、「いつか自分も箱根を走りたい」とテレビ中継を見ながら憧れました。
早稲田大学を選んだのは、4年連続で「花の2区」を走った、早稲田大学OBでマラソンのスター選手・瀬古利彦さんの影響です。平成2年度から瀬古さんが早稲田大学でコーチをしていたこともあり、早稲田大学の選手になりたかったんです。
早稲田大学競走部の特徴は、推薦で入るエリートランナーの数が箱根で走る10人よりも少ないので、一般受験で入る叩き上げのランナーがその穴を埋めていく点。私も一般受験組なんです。いろいろな選手がいる中で、一つのチームとしてうまく融合するのが面白いところですね。
早稲田大学に入学した後、初めて箱根駅伝に出たのは3年生のときです。ちょうど第70回の記念大会で、平塚中継所でタスキを受け取って8区を走りました。念願の箱根駅伝当日は、平塚中継所でとにかくドキドキしていました。緊張するので周りをあまり見ないようにしていましたね。タイム差が付いていて平塚中継所に他大学の選手がいなかったので、テレビカメラも他に写すものがないものだから、ずっと僕を写していますし…。前の区間の選手の姿が見えてからタスキを受け取るまでの10数秒…待つ時間がすごく嫌なんです。後から映像を見ると笑顔なんですが、本当は余裕なんてありませんでした。
走り始めてからは、ペースを保つのに苦労しました。当時は応援の旗が紙製だったので、旗の音が大きくて、自分の足音も聞こえないくらいだったんです。しかも、ちょうど運営管理車がなかった時代だったので、後ろからの監督の声掛けがなく、ペース配分を教えてもらうこともできない。前にも後ろにも他大学の選手がいないので、前の選手の背中を目指すこともできない。茅ケ崎市の浜須賀交差点まで景色もあまり変わらない。早いのか遅いのか感覚が掴めないまま、最後まで走り切りました。結果として目標タイムを達成して、区間2位で次にタスキをつなげたのは本当に良かったしホッとしました。
箱根駅伝は他の大会と比べても観客の多さが圧倒的で、特別な大会です。影響力のある大会なので、若い選手は出場して走ることを誇りに思ってほしいです。その経験は一生の財産になりますよ。
◆東海大学(100回大会)
東海大学陸上競技部の駅伝監督・両角速(もろずみはやし)さん。東海大学や、陸上の名門校・佐久長聖高校(長野県)で陸上の指導者として活躍し、オリンピック代表の佐藤悠基(ゆうき)選手や、箱根駅伝で17人抜きの記録を作った村澤(むらさわ)明伸選手らを育て上げてきました。箱根駅伝では、平成31年の第95回大会で東海大学を優勝に導いた名将です。自身も東海大学の選手として、昭和61年の第62回大会から昭和64年の第65回大会を4年連続で走り、そのうち第62回と第63回大会では平塚中継所でタスキをつなぎました。両角さんに、第100回大会に向けた思いを聞きました。
かつて自分が走った箱根駅伝が次の大会で100回目を迎えることに、歴史の重みを感じます。箱根駅伝を支えてきた先人たちに、敬意を表します。私自身も往路で平塚を走りましたが、平塚は正面に富士山が見える、きついけれども素晴らしいコースです。平塚中継所では、東海大学が地元の大学ということで、いつもたくさんの温かい応援をいただいていることに感謝しています。今回のチームは2年生が多いなど、比較的若い選手が多い編成です。未来の活躍も見据えて、応援していただけるとうれしく思います。
駅伝は山登りの区間に象徴されるように、厳しい競技です。甘さを捨て、自分に厳しさを課して乗り越えていく、メンタルの強さが求められます。私は高校と大学で監督の経験を積み重ねる中で、選手づくりの前に人づくりが大切だという信念を持って指導してきました。選手らは競技者である前に学生です。「皆さまの支援や応援があってこそ、好きな競技に打ち込める」という感謝の気持ちや礼儀といった、心を育てることを重視しています。
第100回大会での東海大学の目標は、「復活の狼煙(のろし)を上げる」です。シード権獲得を目指して頑張ります。
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