日常の風景に溶け込み、普段はあまり気にとめていなくても、ふと見上げるとその美しい姿に思わず心奪われる……。富士山はそんな存在ではないでしょうか。暖かい時期は、はっきりと見えることが少ないですが、空気が澄んでいる冬の時期、空にそびえ立つ富士山を堪能できます。
◆紹介した富士見スポットはここ!
市内には、富士山がきれいに見える場所がたくさんあります。
お気に入りの富士見スポットを見つけに出かけてみませんか。
撮影する場合はマナーを守って撮りましょう。
(1)東豊田
(2)ひらしん平塚文化芸術ホール
(3)湘南銀河大橋
(4)平塚海岸
(5)湘南平
(6)大島
(7)片岡の吾妻橋
(8)飯島
(9)平塚市役所屋上
(10)ひらつかタマ三郎漁港
※地図、写真は本紙をご覧ください。
◆日本の象徴 富士山
古代、噴火を繰り返してきた富士山。人々は富士山を火の山として恐れ、噴火する度に荒ぶる神の姿を重ね見ていました。富士山から遠く離れた場所で祈りを捧げて、鎮まることを願ったといいます。繰り返される富士山の噴火を鎮めるために、麓には浅間神社が造られました。噴火活動が収束すると、川や湖など自然の恵みをもたらす富士山に、人々は転じて敬いの気持ちを抱くようになりました。
江戸時代になると、それまで修行をする人など限られた人だけしか入れなかった富士山に、庶民が富士山の恵みを拝みながら登山するようになりました。人々は「講」という組織を作り、江戸を中心に「富士講」が流行。各地に浅間神社が造られたり、富士塚を造って登ったり、独特な信仰が生まれていきました。
◆平塚の人々と富士山
市博物館の福田麻友子学芸員に、民俗学の視点で平塚と富士山の関わりを聞きました。
城所や岡崎・土屋・金目地区で富士講が結成されていました。年に1回、講の代表者数人が富士山に登り、講員分のお札をもらって帰ってきたといいます。さらに、男女の神様の両方をお参りする信仰があり、富士山と大山(伊勢原市)の両方に登山する風習がありました。大山の祭神が男性「大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)」、富士山の祭神が女性「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」です。土屋の富士講でも、富士山へのお参りの後は、大山にも必ずお参りしていたといいます。
富士登山には日数と費用がかかり、簡単に登れるものではありませんでした。そのため富士講では、富士山が見える位置に石祠を建て、拝んでいたのです。市内には拝んでいた場所に設置した碑や、富士山の麓にある浅間神社の分霊を祀まつった石祠などの石造物が17基現存しています。土屋7基、上吉沢と高根に各3基、北金目2基、寺田縄と浅間町に各1基です。高麗山(こまやま)から湘南平へ続く尾根の途中にある浅間山にある石祠の浅間社や、平塚八幡宮の境内にある、石祠の浅間社は見学しに行きやすいですね。
平塚八幡宮の浅間社石祠は、『平塚小誌』(昭和27年刊)に、「崇善小学校の東北隅浅間山に在(あ)って、社地四坪程の境内に高さ三尺程の石祠がある」と記されていて、後に平塚八幡宮に移されたことが分かります。小誌に記されている浅間山というのは、今では面影はありませんが、平塚八幡宮から続く砂丘で豊原町付近まで小高い丘で松林が続いていたそうです。
○ことわざ
今のように天気予報がなかった時代、人々は自然現象などから雨の予想をしていました。「大山カンダチ(雷)来そうで来ない」「フジヤマカンダチ雨になる」。「大山で鳴り響く雷は今にもやってきそうに見えるけれど、実際は平塚の方には雨は降らせない」「富士山の雷はまもなく平塚に雨を降らせる」という意味です。雨が少ない夏などは、すぐ近くの大山に見える入道雲を見ては「また音ばっかり」と雨を待ちわびる農家の人々はため息をついていました。雨を予報するのに山の状況が重要だったのです。
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