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茅ヶ崎ゆかりの人物たち 第三十一回 野田高梧(のだこうご)

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神奈川県茅ケ崎市

2023年は、脚本家・野田高梧の生誕130年の節目の年でした。野田はさまざまな映画作品の脚本を手がけましたが、特に、10歳年下の映画監督・小津安二郎とは、二人で旅館・茅ヶ崎館に長期にわたって滞在しながら、多くの名作を生みました。

■映画雑誌記者から脚本家へ
野田は、1893年11月19日に現在の北海道函館市に生まれました。野田の母が芝居好きだったこともあり、中学生の頃からよく映画鑑賞や芝居見物をしていました。また、仲間と同人誌を作って、雑誌『文章世界』などに投稿して入選したこともきっかけとなり、大学の文科を志すようになります。1913年に早稲田大学英文科に入学。在学中も市村座に通い、芝居見物を続けていました。
卒業後は、映画雑誌記者となって映画批評を書いていましたが、安定した収入を得るべく、1921年に東京市役所市史編纂室に入ります。しかしその後、松竹蒲田撮影所にいた知人の仲介により、当時の撮影所長・野村芳亭(ほうてい)と会い、試作シナリオが認められたことで、1924年に松竹に入社しました。入社後、新人監督のデビュー作の脚本を手がけるようになります。一度は親友・高田保演出の『水の影』を手伝うために松竹を一時退社しますが、すぐに復帰。1930年代初めには、野田は脚本家としての地位を確立し、1938年公開の野村浩将監督作品『愛染かつら』のヒットにより、野田の名前は世間に広く知られるようになりました。
1946年に松竹の体制変更に伴い退社しますが、契約を結んで脚本家として活躍し続けました。1958年に神奈川文化賞、1961年に小津とともに芸術選奨文部大臣賞、1967年には勲四等旭日小綬章を受賞しました。

■小津安二郎との出会い
野田が最初に小津安二郎と仕事をしたのは、1927年の小津の監督昇進一作目『懺悔(ざんげ)の刃』でした。その後、サイレント作品時代から長きにわたりコンビを組むようになります。戦後、小津との連作、『晩春』(1949年)、『麥秋(ばくしゅう)』(1951年)、『東京物語』(1953年)から小津の遺作『秋刀魚の味』(1962年)まで、全ての小津作品の脚本を担当しました。
野田は小津と製作を行う際、茅ヶ崎館や長野県蓼科の別荘に長期にわたって滞在して脚本を練り、二人は公私ともに親交を深めていきました。

■茅ヶ崎での逗留生活
戦前から松竹は、東京近郊の旅館を一定期間借り上げて監督・脚本家の製作拠点として提供しており、茅ヶ崎館もそのひとつでした。
1947年頃から、野田と小津は、茅ヶ崎館の「二番」の部屋に長期間滞在するようになります。しかし、野田達は、茅ヶ崎館にこもって脚本執筆をするだけでなく、茅ヶ崎海岸へ散歩に出かけたり、茅ケ崎駅前まで映画鑑賞に行ったり、外食にも出かけていました。特によく利用していた店は、当時南湖にあった「鮨元」と、駅の近くにあった「寿司丸福」で、店名が野田と小津の日記に頻繁にあらわれます。のちに二人は、「小津安二郎・野田高梧」の名前を染め抜いた暖簾(のれん)を、鮨元に贈っています。また、野田と小津は外食で済ませるだけではなく、「二番」の部屋の中で自炊もしており、頻繁に「トリのスキヤキ」や「トンカツ」を作っていました。
茅ヶ崎館に逗留していた野田達の元には多くの映画スタッフや俳優、家族などが訪れており、訪れた客と深夜まで語っていたことも日記から伺うことができます。
茅ヶ崎に滞在していた時の野田と小津の様子や、二人の日記から見る茅ヶ崎は、茅ヶ崎ゆかりの人物館の企画展「小津安二郎・野田高梧展―二人の日記が映し出す茅ヶ崎―」で詳しく紹介しています。

問合せ:文化推進課市史編さん担当
【電話】81-7148

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