文字サイズ
自治体の皆さまへ

茅ヶ崎ゆかりの人物たち 第三十三回 新田信(にったのぶ)

7/24

神奈川県茅ケ崎市

1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生した時の町長は、新田信という人物です。彼は、大正デモクラシー期から震災期以降の茅ヶ崎町政を担い、町の発展に大きく貢献しました。

■助役から町長へ
新田は、1885年1月31日に小和田で生まれました。大正デモクラシーにより人々の政治参加への声が強まる中、茅ヶ崎町も例外ではありませんでした。1919年に町政革新運動が起こり、新しい町政が求められていた中で町政を担っていったのが新田でした。新田は、松林村青年会活動に尽力し、農村青年の教養向上に努めていました。町政革新運動の結果、1920年の町会で水越良介が町長に選出されると、新田は35歳で助役に就任し、町政の正常化と町内の融和を行う水越町長のもとで町政を担います。その後1921年、水越町長は新田を後任として町長を辞職。新田は第4代茅ヶ崎町長に就任しました。
新田は町民の理解と自覚を求めて町政に臨みました。就任早々、集落ごとに自治懇話会を開催したほか、旧三村(茅ヶ崎村・鶴嶺村・松林村)を単位とする茅ヶ崎町自治会を設立し、自治意識の向上を図りました。また、全国自治展覧会に「税金の行方」を出品したり、「茅ヶ崎町報」を創刊するなど、新たな取り組みにより、町民のための開かれた町政を目指していきます。

■関東大震災における新田町政
1923年9月1日に発生した関東大震災は、町や人々の生活に大きな影響を与えました。町立の建物は、一部を除き倒壊。道路や堤防、鉄道などのインフラも倒壊・破損しました。新田は、早急に被害調査を行うように指示し、6日には議会を招集して食料品の供給を最優先で行うことを決議しました。これは、商人や農家から買い入れた米を払い下げるほか、政府の有償・無償の払い下げ外米を販売・施米し、砂糖や食塩も分配するものでした。
町の復旧においては、できる部分は地元で努力していくという気運が高まる中、町でも9月27日に新田を会長とした「茅ヶ崎町大震災善後会」が発足しています。会では食料だけでなく、ろうそく、木材、木炭などの生活必需品を供給調達したほか、毛布や衣類など多種にわたり配給を行いました。衛生状態への対応が必要となってくると、善後会は予防接種、感染症の検診を計画していきます。その他、町としては病院の隔離病舎営繕、火葬場営繕、税の免除・減額などの対応を行う他、1924年度からは倒壊した役場、小学校、河川、橋梁などの本格復旧に着手しました。町の財政規模からして多額の財源が必要だったため、起債を決断し、借入を行いました。

■町と地域の発展を支えて
震災復興事業が進展する中で人口・別荘が著しく増加していったことから、新田は地域開発にも着手しました。町営海水浴場の設置や、湘南遊歩道路の建設を「湘南開発期成同盟会」の会長として地元から支援しました。ちなみに、この頃の茅ヶ崎では、JR相模線の前身にあたる、相模鉄道の茅ヶ崎~寒川間営業運転開始、茅ケ崎駅南口の開設、映画館の大黒館が開業するなど、さまざまなことが起きています。新田は1932年に町長を辞職しましたが、その後も県営水道の建設、市部以外では全国初の都市計画法適用など、県政における湘南地域の振興にも寄与し、地域の発展に大きく関わりました。
新田は1959年8月2日、74歳で亡くなりました。

問合せ:文化推進課市史編さん担当
【電話】81-7148

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU