■勝山精華高等学校 その三
市史編纂室 山田 雄造
昼間定時制高校として出発して6年後の昭和28年(1953)に危機が訪れた。朝鮮動乱の影響で兄弟会社が経営不振となり、翌年には援助が打ち切られる事態となった。29年4月、廃校か存続か目途がたたないまま学校は新学期を迎えたが大問題であった。
残された生徒をどうするか、転校させるか、勝山高校分校とするか、県移管にしても県予算は既に決定していた。勝山町営案も出たが町は市制実現のためその余裕はなかった。こうした中で生徒会・教職員・兄弟会社、町長以下議員や町民も加わり町ぐるみで県営移管運動が繰り広げられた。生徒は帰省して署名集めを、教職員は県下の高校に出向き支持を訴えた。県議会もこうした運動に押され、6月議会に県移管が上程され、31日県立勝山精華高校が成立した。
その後の校史を簡略にたどる。38年「働学一如」が学校教育目標に、40年二部制併設が決定、50年になるとオイルショックの影響が深刻となり2部制応募者急減。同年末全日制への移行が発表され、51年から全日制普通科・定時制昼間一部制普通科の2本建で再出発することになった。
普通科志向が強まる中で精華の活性化、奥越地域における職業教育の近代化などを目指し、平成元年(1989)に職業系高校に転換されることになり、校名を勝山南高校とした。校名は南部中学・南小学校などがあり、南のつく学校がなじみやすいためであった。こうして情報・経営実務・生活経営の3学科の職業系高校として生まれかわった。
平成4年に津村節子作詞、三木たかし作曲の校歌が作られた。しかし同23年大野東高校と合併し奥越明成高校となり閉校、跡地には奥越支援学校が置かれた。
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