文字サイズ
自治体の皆さまへ

さかい風土記 145 「峠(とうげ)」のつく地名

15/17

福井県坂井市

■榎峠(えのきとうげ)・大峠(おおとうげ)・近庄峠(きんじょうとうげ)・大内峠(おおうちとうげ)

◇山村と外をむすぶ峠道
『峠』とは山の坂道を登り詰めた最も高い地点に付く地名です。峠は山の上り下りの境目で、峠に着くまでは上り道ですが、峠を過ぎると道は下りに変わります。「峠」という漢字は日本で独自に創られた和製漢字です。「山」の「上」と「下」で「峠」とは、昔の人はうまく考えたものだと感心します。
国土の七割が山地の日本では、多くの峠道が発達しました。今回は市内の「峠」がつく地名を紹介します。周囲を山に囲まれた丸岡町竹田(たけだ)地区(曽谷(そたに)・岡(おか)・山口(やまぐち)・吉谷(よしたに)・山竹田(やまたけだ))は、榎峠・大峠・近庄峠・大内峠の四つの峠で、他の地域とつながっていました。
榎峠・大峠を通る峠道は、どちらも竹田と豊原(とよはら)や丸岡城下町をつなぐ交通路です。かつて竹田の主要産物であった木炭は、この峠道を越えて城下の消費地へと運ばれました。近庄峠は、竹田から上久米田(かみくめだ)村を経て鳴鹿(なるか)方面へ越えるための峠道です。江戸時代には、この峠を越えて、鳴鹿大堰(なるかおおぜき)をつくる材料の藤や杭が供給されました。
最後の大内峠は、越前の山竹田村と加賀の大内村をつなぐ国境(明治以降は県境)の峠です。江戸時代、山竹田村には福井藩の番所、峠の反対側の大内村には大聖寺藩の番所が置かれ、通行人を見張っていました。峠の近くには、中世の山城・イラカ嵩城跡(だけじょうあと)がありますが、この城も国境の監視や警備の城かもしれません。峠で隔てられていたとはいえ、竹田と大内の日常的なつながりは深く、昭和初期には、大内峠を越えて竹田の小学校に通う大内村の子どもたちもいました。
四方を山に囲まれた山村は、一見周囲から隔絶した地のようにみえますが、峠道を通じて様々な人・モノ・文化の往来がありました。竹田の山中には、私たちのまだ見ぬ先人たちの足あとが隠されていることでしょう。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU