■渡辺泉龍(わたなべせんりゅう)の功績
坂井市では現在、稲・麦類・豆類など多くの農作物を生産しています。この土地の豊かさは自然に発生したわけではありません。そこには人の手で川から水を引いて、用水路を作る灌漑事業を行ってきた歴史があります。丸岡藩誕生後にも用水路を開削(かいさく)した記録があり、今回は新江用水(しんえようすい)の灌漑事業をご紹介します。
新江用水は十郷用水上流から分流し、女形谷(おながたに)・山久保を通り竹田川に合流する幅約2メートル、全長約9.4キロメートルの用水路です。寛永(かんえい)2年(1625)、野中山王の鰐淵家(わにぶちけ)(高椋家(たかむくけ))に宿泊していた加賀藩の浪士(ろうし)・渡辺泉立(わたなべせんりゅう)が、鰐淵家当主・当栄(まさよし)と土地開拓のため用水路の開かい削さくを始めたそうです。丸岡藩に許可を得て村人と用水路づくりに取り掛かったのですが、山間の地形は複雑で高低差の把握が難しく、また地面を掘れば大きな岩が出てきました。口伝によれば夜間松明(たいまつ)を灯し地形の高低差を確認し、岩を取り除けるように山王権現を祀って拝んでいたそうです(『丸岡町史』)。
重機のない時代に、人力での灌漑は一大事業です。夜間の作業や神頼みするほど大変な工事を、泉立は4年の歳月をかけ完成させました。この灌漑によって317町歩(サッカーコート約450面)を田んぼにしたとあります(『坂井郡史』)。
水路を完成させた泉立は藩主の本多成重(ほんだなりしげ)から功を賞され、五人扶持(ごにんふち)(給与)に加え、名前の「立」を「龍」に変え、渡辺泉龍と改めました。亡くなった際には本多家の祈願所(きがんじょ)である直乗院(じきじょういん)に葬られ、石碑(市指定史跡)は現在も同寺院にあります。
水路を完成させた後、泉龍に関する主な文献がなく、どのような人生を送っていたのかよくわかっていません。なぜ加賀藩の浪士が鰐淵家に滞在していたのか、灌漑後どのように過ごしたのか、いまだ多くの点が謎に包まれています。
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