■「丸岡城主」本多成重(ほんだなりしげ)、「丸岡藩主」となる!
今から400年前に誕生した「丸岡藩」。柴田勝豊(しばたかつとよ)が丸岡城を築いてから、すぐ丸岡藩が誕生したと思う人がいるかもしれません。しかし、実はそうではありません。
丸岡城は柴田勝豊の後、城主が次々に代わりました。やがて関ヶ原合戦後に、結城秀康(ゆうきひでやす)(徳川家康の次男)が越前国に入り、越前松平家(福井藩/越前藩)が治めることになりました。丸岡城や府中城など各城に主要な家臣が配置され、その城主たちは、藩主の越前松平家を支えました。
藩主が松平忠直(まつだいらただなお)(秀康の長男)の時、家臣たちを二分する大騒動が起こりました。幕府による裁定の結果、当時の丸岡城主が失脚。慶長18年(1613)に、新たに丸岡城主として入ってきたのが、徳川家康の家臣だった本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)の子・本多成重です。重次が妻にあてた、いわゆる〝日本一短い手紙〞とされた書状の一文「おせん泣かすな、馬肥やせ」に登場する子ども「おせん」が、この成重です。成重は、福井藩の家老として、従兄弟の本多富正(ほんだとみまさ)と政治を取りしきり、大坂の陣でも大活躍しました。
やがて松平忠直は幕府への反抗的な態度から流罪(るざい)となり、寛永元年(1624)に福井藩主も忠直の弟に代わります。この時、本多成重に転機が訪れました。幕府より4万6300石の領地を持つ大名として独立を認められました。つまり松平家(福井藩)の家臣ではなく、丸岡城を居城として徳川将軍家(幕府)に直接仕える大名(藩主)となったのです。これが今から400年前の丸岡藩誕生です。
その後、丸岡藩本多家は成重、重能(しげよし)、重昭(しげあき)、重益(しげます)と四代にわたり、およそ70年続きましたが、重益の時、藩内で騒動が起こり、その不始末から領地を没収されました。結果、元禄8年(1695)本多家に代わって有馬(ありま)家が丸岡に入り、明治時代まで至ります。
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