■丸岡藩の教育に尽力
江戸時代中頃の1700年代、丸岡には、『おくのほそ道』で有名な松尾芭蕉(まつおばしょう)の作風を受け継ぐ俳諧(はいかい)を広めた俳人・蓑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)がいました。梨一は、『おくのほそ道』の最初の注釈本である『奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)』の著者としても知られています。
梨一は正徳(しょうとく)4年(1714)生まれで、先祖は武蔵国児玉(むさしのくにこだまぐん)(現埼玉県)に居住していた児玉氏の家系と言われています。梨一は、外戚(がいせき)の高橋(たかはし)姓から高橋梨一、号として蓑笠庵梨一を名乗りました。寛政(かんせい)10年(1798)に刊行された『続近世畸人伝(ぞくきんせいきじんでん)』では、江戸時代の奇人の一人「一祚梨一(ひとつきりいち)」として紹介されています。
また、梨一は、佐久間柳居(さくまりゅうきょ)に俳諧を学んだ上、朱子学、算術、地理学、農業政策にも精通していたと言われています。約30年間、諸国の役人を歴任し、宝暦(ほうれき)11年(1761)から13年頃には、越前の下兵庫村(坂井町下兵庫)の代官所で勤めていました。代官所時代のエピソードとして、『続近世畸人伝』には、百姓たちが梨一の善政に喜び、「梨一明神」と唱えて、真影(しんえい)を敬ったことが記されています。
梨一が丸岡に居住したのは宝暦13年頃で、丸岡藩主・有馬誉純(ありましげすみ)から賓客(ひんきゃく)待遇を受け、明和(めいわ)8年(1771)頃に丸岡藩の儒官(じゅかん)となりました。安永(あんえい)年間(1772~1781)には、丸岡藩の有志の献金を受け、丸岡町石城戸に私塾「蓑笠庵」を開設し、書道、読書、俳諧を藩士らに教えました。
その後、天明(てんめい)3年(1783)4月18日に梨一は病で亡くなり、弟子らにより、台雲寺(だいうんじ)(丸岡町石城戸町)境内に墓が建てられました。明治44年(1911)には、梨一の仏事を行った山田氏の子孫である山田介堂(やまだかいどう)(丸岡町出身の画家)が墓を改修し、その墓は今も大切に維持されています。また毎年、市内の児童が台雲寺の墓を訪れて、地元の人物・梨一を知る学習も行われています。
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