■藩と地域社会の間で
丸岡藩の行政は、藩の武士だけで行われていたわけではありません。江戸時代、武士は城下町に居住したため、藩の指令を各村々へ伝達し、実行するのは、大庄屋(おおじょうや)や庄屋(しょうや)といった百姓身分の人々でした。一本田村(現丸岡町一本田)の山田家は、丸岡藩を支えた地域の有力者の代表格です。
山田家は、丸岡藩の大庄屋(組頭(くみがしら))を務めたことで知られます。大庄屋とは、藩と百姓の間に立ち、多くの村を管轄した役人です。丸岡藩では裕福な百姓が務めました。
大庄屋の仕事は、藩の命令の伝達や道の整備、争論の仲裁などです。大きな権限を持つ大庄屋は、他の百姓から恨まれることもありました。安永(あんえい)8年(1779)には、百姓一揆勢が大庄屋宅を打ち壊し、大勢で城下町に押し寄せ、藩に大庄屋の役職廃止を要求しています。藩は要求を認めましたが、財政悪化に苦しむ丸岡藩では、その後も地域の有力者の財力や実務能力が頼りにされました。
江戸時代後期に丸岡藩が財政再建のために設立した郷会所(ごうかいしょ)では、山田家を含む藩領の裕福な百姓が責任者に任命されています。この他、山田家はたびたび藩への上納金や軍用金の調達を命じられており、こうした貢献から、当主は藩士に準じる待遇(苗字帯刀(みょうじたいとう)の許可など)を与えられていました。
幕末には、山田家から藩士となる人物も出ました。元治(げんじ)2年(1865)に、山田孫左衛門(やまだまござえもん)は、藩主・有馬道純(ありまみちすみ)から知行(ちぎょう)を与えられました。また、子の穣(ゆたか)(幸之助(こうのすけ))は、漢学を得意としたことから、明治3年(1870)に藩校平章館の漢学教師に任命されています。
翌年の廃藩置県で丸岡藩はなくなりましたが、その後も山田穣は戸長(こちょう)や県会議員、貴族院議員を務めました。丸岡藩を支えた山田家の手腕は、近代社会でも発揮されたのです。
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