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ふるさと昔 よもやま話(150)

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福井県美浜町

■~国吉城主・粟屋越中守の実名について~
今年7月、国吉城主粟屋越中守勝久(あわやえっちゅうのかみかつひさ)の末裔に当たる方が、若狭国吉城歴史資料館にお越しくださいました。勝久の子孫には、江戸時代、豊後国(ぶんごのくに)臼杵(うすき)藩(大分県臼杵市)の家老を務めた系統(臼杵粟屋氏)が存在します。その末孫に当たる方が現在、臼杵市内で書家として活動されています。先祖の勝久は和歌に秀でていたと伝わり、文芸に篤い先祖とのつながりを感じました。
この出来事に関連して、今月は、国吉城主粟屋越中守勝久をテーマに述べていきます。勝久は若狭武田氏の重臣で、越前朝倉氏の侵攻を防いだ「難攻不落」の国吉城を築きました。このことは、佐田の地侍田辺半太夫(たなべはんだい)が、江戸時代にまとめた軍記『国吉籠城記』(以下『籠城記』)で知ることができ、現在も数多くの写本が残っています。
近年、その実名は「勝久」ではなく「勝長」という説が唱えられました(松浦義則「戦国末期若狭支配の動向」)。「籠城記」写本の多くが城主粟屋越中守の実名を「勝久」と伝えますが、その一部に「勝長」と記すものが存在します。また、苗字は未詳ですが、戦国時代に三方郡東部の支配権を有した「勝長」の存在や、同時代の若狭国に存在した「粟屋越中守」の家来の名を踏まえて、国吉城主の実名が「勝長」だと指摘されました。
しかし、先祖の武功に肖り、同じ名を名乗る等、戦国武将が実名を改める事例は数多く存在します。粟屋氏においても「勝久」や「勝長」と名乗った当主が存在し、越中守が「勝久」や「勝長」を名乗ったことは十分に考えられます。
そもそも「久」と「長」の字形が異なり、筆写の際に書き誤った可能性は低く、ましてや『籠城記』の筆者田辺半太夫が、自らの主人の名を書き誤ることは考え難いといえます。では、越中守が「勝久」を名乗っていた根拠を示していきます。
国吉城を去った越中守は、羽柴秀吉に仕え、一説には天正13年(1585)に没したと伝わります。佐柿の徳賞寺に残る位牌には「勝久院殿俊翁現仲大居士(しょうきゅういんでんしゅんおうげんちゅうだいこじ)」と戒名が刻まれています。これが根拠の一つです。また、一説には、天正13年以降も生きており、その裏付けとして、同16年、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)大村由己(おおむらゆうこ)が催す連歌会(れんがえ)に「粟屋越中守入道勝久」なる人物の出席が確認されます(『言継卿記(ときつぐきょうき)』)。このことから、秀吉に仕えたのち、大坂に召し出され、時期は定かでないが勝久と名乗り、また出家していたことが考えられます。ただし、これは傍証からの考察であり、再考の余地は十分にあります。当館では、今後も調査を続けていきます。
(若狭国吉城歴史資料館)

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