■美浜から漕ぎ出した北前船の記録
美浜町歴史文化館では2月6日から、企画展「美浜に残る北前船の波跡」を開催します。
そこで、本号では、12月号に続き、町内に伝わる北前船に係る歴史をご紹介します。その中でも、今回は船に注目してみたいと思います。
本町には、多くの船主が居を構え、数多の船を運航していましたが、船名のみが伝わる船も多く、その来歴について記録が残る船は数えられる程です。
しかし、偶然にも久々子村には、それぞれ3船、自身が所有した船について記録を残した船主がいました。その内の1人は、川渡甚太夫です。彼は、自身の生涯を「川渡甚太夫一代記」に書き残しています。金融業や京都での久々子湖産鰻の販売を行っていた甚太夫は40歳を迎えた弘化3年(1846)、新たなビジネスとして、伊勢丸を購入し日本海での交易に乗り出しました。
伊勢丸は、小浜の丹波屋治右衛門が売り出した積載量が200石積の船で、購入価格は100両でした。この伊勢丸で敦賀と酒田(山形県酒田市)間を往復し、特産品等を売り買いする商売は上手くいったようで、4年後の嘉永3年(1850)には早くも伊勢丸の倍の積載量となる400石積の船を175両で買い、上瀬丸と名付けています。
そして、甚太夫の最後の船となったのが蛭子丸です。長らく小浜藩の御用船で船頭を務めていた甚太夫が、慶応4年(1868)に購入したのが蛭子丸であり、積載量が600石積であるとともに、2人での共同購入とはいえ、購入金額も1,200両と人生最大の船となりました。
一方、12月号に掲載した久々子中西家所蔵の船絵馬は、同家が運航した歴代「宇波西丸」の姿が3隻描かれる興味深い構成です。この絵馬が収められる幅広の額縁には、3隻それぞれについて墨書がなされ、こちらも貴重な歴史史料です。
第一宇波西丸は、積載量が65石積の比較的小型な和船で、早瀬の寺川源左衛門が造船を行い、明治16年(1883)正月に進水しました。
第二宇波西丸は、積載量が350石積で、和船の船体に洋帆船の長所を取り入れた和洋折衷の「合いの子船」であり、明治23年(1890)に小浜の富士甚兵衛によって造船されました。
第三宇波西丸は、積載量が550石積の洋船で、明治29年(1896)に山口県小松村(現周防大島町)で造船されました。
2人の北前船主がこのような記録を残したのは、自らの生業と船に誇りがあったからでしょう。
今回の企画展では、本コラムでご紹介した川渡甚太夫関係資料と中西家船絵馬も含め、北前船に関係する資料を展示させていただきますので、ぜひご来館ください。
(美浜町歴史文化館)
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