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ふるさと昔 よもやま話 (152)

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福井県美浜町

■文学作品としての『国吉籠城記』~秋季企画展『城と文学』より~
若狭国吉城歴史資料館では、1月26日まで秋季企画展『城と文学~紫式部は来なかったけど…~』を開催しています。
今年の大河ドラマ『光る君へ』の主人公は『源氏物語』の作者で、福井県ゆかりの作家でもある紫式部です。ドラマを通じて、『源氏物語』をはじめとする古典文学への関心が高まることを見据えて、本展では「難攻不落」の国吉城の歴史を今に伝える軍記『国吉籠城記』をテーマに取り上げています。
永禄6年(1563)から数年間、越前朝倉氏の軍勢を国吉城に立て籠もった城主粟屋越中守の軍勢が撃退し続けました。その様子は、粟屋方として参戦した地侍田辺半太夫安次(宗徳入道、以下「半太夫」)が江戸時代初期に残した記録をもとに、多くの人々が書写し、軍記『国吉籠城記』(以下『籠城記』)として普及しました。
『籠城記』は、文学的には「軍記物」に分類されます。軍記物は合戦をテーマに取り上げ、戦いの様子を記す一方で、戦場で活躍した武将たちの功績を記録した点に特徴があります。
『籠城記』は、半太夫が味方した粟屋方の視点でまとめられています。写本によって異同はありますが、朝倉勢が1,000「騎」に対し、粟屋勢は800「人」と少ない数で迎え撃ったと記され、粟屋勢の不利が表されています。「騎」とは上級武士たる騎馬武者のことで、彼らは足軽たちを率いていました。ただし、軍記物では「千」や「万」で「多勢」を表現するという特徴があり、実数はわかりません。そんな大軍を前に、地形の険しさや見晴らしの良さを生かした城に籠もり、大石や古木を投げ落とし、弓矢や鉄砲を撃ちかけて退けたと記しています。
また、戦いに直接関連しないものの、その背景には、若狭国を守った英雄として粟屋氏を顕彰するために記されたと考えられるエピソードもあります。
一方で、朝倉勢の狼藉に三方郡内の民衆が苦しんだことが記され、また、朝倉方の記録(『朝倉始末記』等)には、『籠城記』に記されない粟屋勢が敗北した戦いも見えます。近年は、『籠城記』が記す年代に対して疑問が提示されています。
しかし、『籠城記』は、半太夫たち三方郡の地侍が朝倉勢の侵攻を守り抜いた記憶を後世に残すために成立したものです。当地の歴史を語る上で欠かせない文学作品であることを忘れてはなりません。
企画展では、文学作品としての『籠城記』をさらに深掘りして紹介しています。皆様のご来館をお待ちしております。
(若狭国吉城歴史資料館)

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