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越前町の指定文化財を訪ねよう 116 ―『黄檗版一切経』編 (42)―

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福井県越前町

学M:こんにちは。
E子:こんにちは。さて、ついに文政九年(一八二六)上野順藝(じゅんげい)(丹山(たんざん))(一七八五~一八四七)が『黄檗版一切経』の校合に着手しました。
校合作業とは、具体的にどのようなことをするのでしょうか。
学M:校合作業は経典の一字一句を比較し、『黄檗版一切経』に『高麗版大蔵経』の用例を書き入れるものです。
こちらの『大般若波羅密多経(だいはんにゃはらみったきょう)』巻第一の巻末を見てください。何と書かれていますか。
E子:「文政九年丙戊春二月廿二日亥刻三校了 順藝」とあります。
学M:そうです。文政九年(一八二六)二月二十二日に順藝が三校を終えたという意味です。
浄勝寺本『黄檗版一切経』に所収されたほとんどの経典の巻末に、このような記録が残されています。
E子:順藝は、『黄檗版一切経』と『高麗版大蔵経』の対校を三回にわたって行ったのですね。
学M:この巻末の記録を「対校録」といいます。対校録を見ると、順藝が細心の注意をはらい作業を続けていった様子をうかがえます。次に、こちらの『佛本行経(ぶつほんぎょうきょう)』巻第三の巻末を見てください。次のように書かれています。
天保二年辛卯夏四月朔初秋 源義光
同夏四月二日再校校異十一所 野元哲
天保五年甲午冬十月十日三校了 釋順藝
E子:三人の名前と日付が見えますね。
学M:『佛本行経』巻第三については、まず天保二年(一八三一)四月一日に源義光が初校、翌二日に野元哲が再校、そして天保五年(一八三四)十月十日に順藝が三校を行ったことが分かります。
E子:『佛本行経』巻第三は、三人の人物によって対校が行われたのですか。これはとても時間のかかる作業ですね。
学M:そうです。文政九年(一八二六)に始まった『黄檗版一切経』の校合は、天保七年(一八三六)に終わりを迎えました。まさに、一一年の歳月を費やした大事業です。
浄勝寺本『黄檗版一切経』の調査では「対校録」を重視し、全ての経典の巻首・巻末・対校録の写真撮影と記録を行っています。
今後の調査研究が進むと、いつの時期に、どのような人物が『黄檗版一切経』の対校作業に携わったのか分かってくるでしょう。
E子:すると、順藝の交友関係や浄土真宗における学僧の実態などが明らかになるかもしれませんね。

【引用・参考文献】
山田秋甫『浄勝寺丹山』浄勝寺 一九一四年

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