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越前町の指定文化財を訪ねよう116―『黄檗版一切経』編(43)―

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福井県越前町

E子:こんにちは。ついに天保七年(一八三六)上野順藝(じゅんげい)(丹山(たんざん))(一七八五~一八四七)による『黄檗版一切経』の校合が終わりを迎えました。
学M:まさに、一一年の歳月を費やした大事業です。以前に紹介しました『全蔵漸請千字文朱点(ぜんぞうぜんしょうせんじもんしゅてん)』という台帳をみると、文政三年(一八二〇)五月から天保二年(一八三一)七月までの期間において、順藝は『黄檗版一切経』を購入しつつ、対校を行っていたことが明らかとなっています。
E子:実際に、順藝が対校作業を行っていた場所はどこなのですか。
学M:京都建仁寺境内の西側にあった堆たい雲うん軒けんという塔頭だとされています。
ただし、順藝とともに対校作業に携わった香厳(こうがん)が記した「一切経校合の記」の記録より、佛教大学名誉教授の松永知海先生は、対校場所を永源庵と推定しています。
E子:永源庵も建仁寺の塔頭なのですか?
学M:永源庵は建仁寺境内北側に位置し、当時の住持は通銓(つうせん)禅師でした。
E子:通銓は順藝に『高麗版大蔵経』の閲覧を許可した人物ですね。みずからの寺も校場として提供し、『黄檗版一切経』の校合に協力されたのですね。
学M:さて、校合作業が完了した翌年に大事件が起きました。天保八年(一八三七)九月、京都建仁寺が罹災したのです。
E子:えっ!『高麗版大蔵経』はどうなったのですか。
学M:この時、『高麗版大蔵経』の一部を順藝が借用しており難を逃れましたが、大部分が焼失したと考えられます。
E子:あれだけ苦心して閲覧した建仁寺の『高麗版大蔵経』が燃えてしまうとは、悲しくなってしまいますね。
学M:建仁寺の火災を重視した東本願寺は、校合『黄檗版一切経』も失われることを恐れ、天保八年(一八三七)十一月、複製一式を本山に上納するよう順藝へ命じました。『浄勝寺丹山』には、この時の様子が次のように記されています。
越前丹山義建仁寺高麗一切経蔵校合相
済候段達二 御聴一候ニ付今一蔵致二校
合一御本山江相納候様 被二仰付一候間
此段丹山江可レ被レ達候事
「越前丹山が建仁寺高麗一切経蔵校合を完了したことを聴いたので、いま一度校訂を行い御本山へ納めるよう仰せつけられたので、このことを丹山へ伝えよ」という意味になります。
次回に続きましょう。

[引用・参考文献]
山田秋甫『浄勝寺丹山』浄勝寺 一九一四年

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