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【シリーズ】南北朝・菊池一族歴史街道(3)

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福岡県八女市

■大刀洗町
この特徴的な町名の由来は、南北朝時代の1359年、肥後の豪族・菊池武光率いる南朝方と筑前大宰府を本拠とする小弐頼尚((しょうによりひさ)率いる北朝方が、現在の小郡市大保付近で激突した「大保原(おおほばる)合戦」に勝利した菊池武光が、激戦で血の染まった太刀を川で洗った、という故事に由来しています。

○菊池武光の銅像
大刀洗川のほとりに広がる大刀洗公園には、菊池武光が太刀を洗った場所とされる菊池渡(きくちわたり)と、昭和12年に建てられた菊池武光の銅像があります。この像をよくみると、あちこちに傷や穴があるのがわかります。これは第二次世界大戦中の昭和20年3月大刀洗飛行場空襲によりできたものです。

○菊池武敏と大刀洗
武光の台頭する前の延元元年(1336)、多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた肥後の菊池武敏は、本郷の三原種朝(みはらたねとも)に守られて「三原城」に逃げ込みました。ここで10日あまり籠城して戦いましたが、とうてい足利方の仁木義長の攻撃を防ぐことはできませんでした。暗闇に紛れて八女の黒木城に走りましたが、ここでも防ぎきれず惨々の態で居城隈府に逃れかえりました。

○「三原城」
三原城は石垣を高く積んで、天守閣をもつような城ではなく、屋敷を堀でかこんだ館です。今でも堀の跡がよく残っています。天正14年(1586)に当主三原紹心(じょうしん)が太宰府の四王(しおう)寺山の岩屋城で鹿児島の島津軍との戦いで討ち死にし、城としての役目は終えました。平地にある城(館)で堀がはっきり残っているのは福岡県内では三原城だけで、大変めずらしい遺跡です。平安時代より栄えた三原家代々の居城・三原城があった本郷地区は、現在も昔ながらの街並みがたくさん残っています。白壁造りの家や寺社仏閣、醤油の蔵元、酒造など歴史情緒あふれる街並みが広がります。
※「醤油」の「醤」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。

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