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【シリーズ】南北朝・菊池一族歴史街道(4)

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福岡県八女市

■久留米市
筑後川と共に久留米市のシンボルとも言える高良山。耳納山地の最西端に位置する標高312mの山です。筑紫平野を一望できるこの山には、筑後国一ノ宮の高良大社が鎮座し、今も崇敬を集めています。また、高良山は九州の南北・東西を結ぶ水陸交通の要所を押さえる位置にあり、古代から神籠石(こうごいし)が設けられるなど、軍事拠点としても重要な場所でした。
1359年、懐良親王や菊池武光ら南朝方は征西府を高良山へ進め、筑後川を挟んで少弐氏と対して、大保原の合戦がおこります。勝利した南朝方は、その2年後の1361年にはついに大宰府へ進出し、九州を制覇しました。ところが1372年に、征西府は九州探題として派遣された今川了俊の反撃を受け、大宰府から高良山へ撤退することとなります。
南朝方はその後約2年間、高良山を征西府として北朝方と戦いました。その間に菊池武光・武政父子が相次ぎ急逝し、主力の菊池勢当主に弱冠12歳の武朝が就任する事態となったため、筑後川対岸に北朝方が迫る状況を見てついに高良山を放棄し、菊池の隈府城へ撤退しました。
慎重な今川了俊は約1か月もかけて状勢を確認したのち、ようやく筑後川を渡るとすぐに高良山を支配し、翌月には山鹿まで進軍しています。これを最後に、南朝方の勢力は衰退していくこととなります。つまり、高良山は九州南朝の命運を握る山だったのです。
高良山の山頂にある毘沙門岳城(別所城)は、懐良親王が在城したとされる城で、空堀や土塁などの遺構が残っています。その直下にある高良大社奥の院には湧水があります。この湧水には、北朝方に高良山を包囲され窮地に陥った懐良親王らが、出陣に際しこの水で杯を交わしたところ、戦わずして敵が退去したという伝説があり、「勝ち水」と呼ばれています。

問合せ:
文化振興課文化振興係【電話】23・1982
久留米市役所文化財保護課【電話】0942・30・9225

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