◆不安定な世界情勢が続く今こそ振り返る
医師・中村哲さんの「生き方」
良心の灯は時代を超えて輝き続ける
▽「一隅を照らす」
私にとっての一隅はアフガンだった。
世界中の人がそれぞれの一隅を見つけて、その一隅を照らせば、世界中が照らされる。
それが、きっと世界平和につながる。
〈2016年8月「みんなの人権セミナー」講演時 中村哲さんの言葉より〉
▽正義・不正義とは明確な二分法で分けられるものではない。敢えて「変わらぬ大義」と呼べるものがあるとすれば、それは弱いものを助け、命を尊重することである。
〈中村哲さん著書『医者、用水路を拓く』より〉
▽「使命感なんていう大それたものを持っていたわけではないんです。ただ、困っている人がいて、それを見ないふりして自分が楽をするというのは、どんなものかなと思っただけなんですよ。」
〈「広報こがまち」1997年9月号 中村哲さんインタビュー記事より〉
▽国境を越えて拡がる医療活動パキスタンからアフガニスタンへ
古賀市出身の医師・中村哲さん(古賀西小卒業。以下「哲さん」)が初めてパキスタンを訪れたのは1978年、ティリチミール山登山隊の同行医師としてだった。このとき、医師と薬の不足で治療を受けられない多くの人に出会ったことが契機となり、パキスタン北西部の都市ペシャワールのペシャワール・ミッション病院に赴任。1984年から35年にわたり、ハンセン病をはじめ貧困層の診療に携わることとなった。
現地の人は裸足で過ごすことが多く、ハンセン病によって足の裏の感覚が麻痺すると、小さな傷でも重症化してしまい、最悪の場合は足を切断することも。「予防には履物が必要」と、哲さんは市場に出向き現地のサンダルを研究。病院内にサンダル工房を開設し、大量のサンダルを無償で提供した。結果、足を切断する手術は激減。また、ハンセン病で職を失った人を工房で雇用し、働く場も作った。哲さんは、単に病気やケガを治療するだけではなく、その人の暮らしを支えることが必要だと考えていたのだ。
ペシャワールは国境に近く、隣国アフガニスタンからの難民も多かった。哲さんは、アフガニスタンの山岳無医村にも次々と診療所を開設。両国にまたがり、最も多い時には11か所の診療所を開き、診療を行った。哲さんは、まず現地の言葉を覚え、現地の人々との対話を大切にしていたという。
▽百の診療所よりも一本の用水路を
2000年、アフガニスタンを大干ばつが襲った。子どもたちはのどの渇きに耐えられず泥水を飲んでは病に倒れた。また、水不足による食料不足で体力を失った人々が次々に亡くなっていった。
・今、命を救うために必要なのは「水」だ。
哲さんは水の確保に乗り出し、枯れた井戸の修復を中心に、約1600本もの井戸を掘削した。しかし、そのうち、地下水そのものが枯れ始めていることに気付く。
2003年、哲さんは大きな決断をする。「緑の大地計画」として、アフガニスタン東部を流れるクナール河からの用水路建設だ。このとき哲さんは56歳。医師である哲さんに、用水路建設の経験などもちろんない。それでも、哲さんは決断した。それから専門書を何冊も読んで勉強し、みずから設計図を引き、工事では大きなショベルカーを操縦し、最前線で働いた(このときモデルとなったのが、福岡県朝倉市の治水設備「山田堰(やまだぜ)」という伝統工法)。
そして7年の歳月をかけ「マルワリード用水路」が完成。この用水路から水を得たガンベリ砂漠は、小麦や野菜、オレンジなども収穫できる豊かな農地に生まれ変わった。用水路完成の喜びを哲さんはこう記している。
「木々が生い茂り、羊たちが水辺で憩い、果物がたわわに実り、生きとし生けるものが和して暮らせること、これが確たる恵みの証である。世界の片隅ではあっても、このような事実が目前で見られることに感謝する」
その後も次々に寄せられる住民たちの願いに応え用水路を拡大。1万6500ヘクタールの農地と、65万人の人に水の恵みをもたらした。まさに「命の水」が、たくさんの命を救ったのだった。
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