◆号外!ラドン天神に襲来!!
なじみのデパートが、怪獣に破壊されるそのさまは福岡の人々に衝撃を与えた。
ミニチュアの精巧さは、実際の天神と寸分違わぬ「本物の天神」をスクリーン上に出現させ、見る者の心をわしづかみにした。妥協を許さぬ彼の執念の賜物(たまもの)であった。
その優れた技術力と飽くなき探求心とで戦後特撮映画の黄金期を支えた男。
かの特技監督円谷英二(つぶらやえいじ)を「特撮の神様」にまで押し上げたのは、特撮美術監督井上泰幸の類まれなる技術と情熱によるところが大きかったとも言えるだろう。
「特撮」とは特殊撮影の略。現実の風景や実寸大の作り物を撮影するだけでは記録できない難しい光景を、様々な工夫を用いて映像の中に実現させる撮影技術。
1922年11月26日古賀市薦野(こもの)の医者井上市治(いちじ)・千代夫妻の五男として誕生。ガキ大将でよく学校の先生をあきれさせた元気な少年だった。
佐世保海兵団に入隊。船舶警戒員だった彼は輸送船宗像丸に乗船中、アメリカ軍の機銃掃射に被弾し、左足を失った。
入院中に終戦を迎え帰郷。小倉の傷痍(しょうい)軍人補導所(職業訓練所)に入学した。3年間家具作りに取り組み、上京後日本大学芸術学部美術科に進学し美術造形を学ぶ。1953年〝海中で魚を鑑賞できるトンネル型水族館〟の設計プランを当時すでに作成し、「君のプランは20年早すぎる」と言われたことも。デザイン・設計・施工の能力を認められ、3年次で教授から「もう教えることがない」と言われるまでになっていた。
偶然、エキストラと間違われたのをきっかけに撮影所に出入りするように。〝製図の正確さ〟と家具作りで培った〝造形の腕〟を持つ彼は、特撮美術のスタッフとして歓迎され映画作りに携わることになる。後年「世の中にこんな面白い世界があったのかと驚いた」と当時を振り返っている。
1954年東宝の金字塔『ゴジラ』の製作にあたり、円谷英二**1率いる特撮班に加わる。左足の義足を隠しての参加だった。婚約中だった玲子への手紙にはこう書いている。
「身体のことは最後までかくして、どんな仕事でも頭を突っ込んだら徹底的にやる事にしています。足の負傷が知れたころには、仕事は人より一歩先に行っています。」「真面目にやっておれば、また過去において真面目であれば、誰か目を付けているものですね。」玲子への誓い通り、信念を貫き通した彼は円谷監督からの全幅の信頼を得た。
空の大怪獣『ラドン』は故郷福岡が舞台。実際の中洲や天神と全く同じに造られた精緻(せいち)な街並みを「ミニチュア特撮の最高傑作(けっさく)」と讃(たた)えるファンも多い。
井上の仕事に一貫する特徴は、綿密な調査に基づき、空気の層まで取り込むほどの徹底的な再現性。
ラドンが降りたち瓦解(がかい)する岩田屋デパートや屋上の遊具、側面の看板、一階から伸びた西鉄電車の線路、周囲の道や建造物に至るまで、ロケハンの際に存在したものが一つ残らず徹底的に再現された。〝本物〟としての質感やスケール感を表現するため、彼は街の全てを徹底的に測り、正確な図面を引き、〝本物として存在する街〟そのものを造った。博多を知る観客は、馴染みの風景に突如ラドンが舞い降りたことに心底驚いたはずだ(実際2014年に古賀市で開催された『ラドン』の上映会では、当時の福岡を知る年配の観客からどよめきが起こった)。
特撮セットの完成後にセットのロケハンをする円谷監督。そのためどの角度からでも撮影できるよう巨大な舞台を準備するのが常だった。『モスラ』も、デパートのどちら側から現れるか決まっていなかったため、渋谷一帯の巨大セットを作成。実際フィルムには一部しか映っていなかったが、「オヤジ(円谷)の撮りたい画をちゃんと撮ってもらえるようにするのが我々の仕事」と割り切っていた。
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