第一線でヒット作を出し続けてきた泰幸だが『ゼロ・ファイター大空戦』でついに特撮美術監督に就任。ようやく対外的に名前がクレジット*2されるように。同じ頃母・千代が亡くなり、遺品整理中に父・市治の日記を発見。市治は15歳で後に養兄となる井上圓蔵(えんぞう)の書生となり、早朝から深夜まで雑用に追われながらも猛勉強し、19歳の若さで医師免許試験に合格。また不治の病に侵された折も、重病人と聞くと衰弱した身体を押して診療に努めたそうだ。近隣の人々に尊敬されていた理由を改めて理解し、また父の努力と奮闘ぶりを知ったことで、これまでよりもっと一生懸命にやらねばと決心。若き日の父に力をもらったのだった。
「体に力がついて来た気がする。人よりすぐれた血をひいている。僕に出来ぬことは、努力不足と思えばよい。大いに誇りを持て。それにふさわしい努力をせよ。」(45歳5月24日の日記より)
円谷監督死去後、『ゴジラ対ヘドラ』を最後に東宝を退社し造形会社アルファ企画を設立。テレビ特撮作品の模型や美術、怪獣スーツ、CMでの造りもの。またキャラクター造形や東京ディズニーランドのジオラマなど、映画以外にも制作活動の場を広げ、活躍を続けた。
9年ぶりに復活した『ゴジラ』(1984年)に参加し、第9回日本アカデミー賞特殊技術スタッフ賞を受賞。
「賞そのものはどうでもいいのですよ。ただ関わったみんなの想いが受賞によって少しでも報われてくれていれば、それで十分です。また受賞によって少しでも日本映画界が特撮に対して評価してくれたという事実や、観客が特撮に興味を持ってくれるきっかけになってくれたとしたら、それはとてもありがたいこと」と井上は後に振り返っている。(1987年『竹取物語』、『首都消失』でも第11回日本アカデミー賞特殊技術賞を受賞)
特技監督の功績だけが広く謳われる特撮映画。クレジットに記載されることのないスタッフの情熱・想像力・献身的な努力と挑戦が、東宝映画の類まれなる特撮ならではの視覚効果を確立した。正当な評価をされずとも、スタッフは寝る間も惜しんでより質の高い効果的な美術を造り込み、圧倒的迫力の場面を出現させ続けた。この事実を、広く記録として残すべきだと泰幸は強く願っていたのだ。
生前彼は「片足を失くした事で、さまざまな偶然が重なり特撮美術監督になれた」と言っていたそうだ。しかし、それはただの偶然などではなく、彼の人間性と才能、並外れた努力、関わってくれた人たちにより必然となり、運命を動かしたのに違いない。
「特美とは孤独な仕事ですよ。自分自身との闘いなんです」(井上)特撮映画においては裏方である「美術」がいかに重要で、その価値の根幹に関わるものか。1954年の『ゴジラ』以来、円谷英二監督や有川貞昌(ありかわさだまさ)監督、中野昭慶(てるよし)監督の特撮作品に関わり戦い続けた結果、井上なくして特撮作品の黄金期はなかったのでは、と言わしめる存在となった。
晩年の彼のこの言葉が印象的である。
「ただ、みんなと一緒に仕事することが出来て、私はとても楽しかったよ。本当にありがとう。映画の仕事は最高ですよ。」
▽円谷英二*1
「特撮の神様」として今なお世界中のファンからリスペクトされ続ける特技監督
▽クレジット*2
映像作品の制作に関わった人物・団体(出演者、スタッフ、スポンサー企業など)をリスト化し、字幕などを用いて表示するもの。作品のオープニングやエンディングなどで表示される場合も多く、このリストに名前を載せることを「クレジットする」と呼ぶ。
[参考文献]
特撮映画美術監督井上泰幸:キネマ旬報社
東京人「特撮と東京」:都市出版株式会社:2023年4月号
CasaBRUTUS:マガジンハウス:2012年9月号
特撮のDNA福岡展公式パンフレット:2023年3月18日発行
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