江戸時代、山国川を渡って中津城下に向かうための「小犬丸渡し」と「広津渡し」がありました。
「小犬丸渡し」を利用して小倉口から入ることができたのは幕府の役人や大名、上級藩士、そして通行手形を持った者だけであり、下級藩士や旅人は上流の「広津渡し」を利用して川を渡り外堀を遠回りして城下町に入りました。
また、「広津渡し」付近の堤防には、上流と下流に一基ずつ「刎(はね)」と呼ばれる石積みの構造物が造られていました。これは、水の浸食から堤防を守るために水流の方向を変えたり、勢いを弱くしたりすることを目的に設置されていました。昭和34年ごろに行われた山国川の築堤工事に伴い、刎は取り壊されましたが、JR鉄橋の南側には堤防に付設した小段があり、刎の下部と推測されます。河川堤防を散策されるときに案内看板をご覧になりながら、江戸時代の吉富町と中津城下の歴史について思いをはせてみませんか。
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