かつて、大野の町にアメリカがあった
■板付基地の記憶を次の世代へ
JR大野城駅西口前の空き地に高さ11mの電柱が1本建っています。
上大利在住の井上さんは、次のように思い出を語ってくれました。「米軍基地内のカミサリー(食糧販売所)の傍に建っていたこの電柱を見るといろんなことを思い出す。今から65年前の高校一年生の頃、同級生に誘われて基地内のカミサリーで働くようになった。そこにはアメリカから空輸された野菜や冷凍食品、缶詰などが陳列され、クリスマス前には冷凍された一羽まるごとの大きな七面鳥が沢山入荷して、飛ぶように売れていた。カミサリー裏手のプラットホームに到着する食料品を大きな冷蔵庫や倉庫に運んだり、陳列したりする今の日本のスーパーマーケットのような仕事の他に、客が購入した商品を大きな紙袋に詰めて、客の自家用車まで運びチップをもらうデリバリーボーイの仕事もしていた。1ドルが360円の時代で、10回も運ぶと3000円くらいになったが、店の裏に置いてあるチップボックスに入れることになっていた。カミサリーの月給は7000円くらいで、当時の大学卒の給料が1万円だったから結構な収入だった。日曜日にはカミサリーの食料品をアメリカ兵と一緒に久留米の聖母園に届けに行く慈善活動もしていた。また白木原や春日原に飲みに行って問題を起こしたアメリカ兵たちが銃を持ったMP(アメリカ軍の警察)2人に監視されながら、モンキーハウス(牢屋)から出てきて基地内のごみ拾いする姿を見ていた。夕方5時になると司令本部前のアメリカ国旗が降ろされる。その時アメリカ国歌が流され、アメリカ兵は立ち止まって敬礼し家族たちは頭を垂れてじっとしていたが、基地で働く日本人は関係なく動き回っていた。そんな日常が基地の中にはあった。」
板付基地返還から50年以上が経ち、当時のことを知る住民も少なくなりました。こうした個人の記憶を記録・公開することで次の世代に語り継がれ、基地や戦争について考えるきっかけになることを願っています。
問い合わせ先:心のふるさと館文化財担当
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