■幕府監察・小林甚六郎(こばやしじんろくろう)の太宰府詣でと五卿
慶応元(1865)年正月、京都を追われた三条実美(さんじょうさねとみ)ら急進派の公卿5人が太宰府へやって来ますが(五卿落ち)、その翌年、幕府は太宰府天満宮に滞在中の五卿を大阪へ拘引する目的で目付小林甚六郎を派遣しました。この時期はちょうど、元治元(1864)年の禁門の変で「朝敵」と見做された長州藩の2回目の追討が行われる前後に当たり、別手(べって)組ら警備の者を含め総勢80人で博多に上陸した小林甚六郎は、3月末にその内19人を引き連れて二日市に入り(「送迎解釈紀事」「延寿王院御用日記」)、しばらくはそこで五卿送還実行の機会を窺うことになりました。
4月1日、小林甚六郎は二日市から太宰府へ入り、検校坊(けんぎょうぼう)において福岡・久留米・佐賀・熊本・鹿児島五藩の五卿警備担当者らと面談しますが、想定より遥かに小林の任務遂行は難しく、五卿との対面すら許されずに天満宮参詣だけでこの日は二日市へ戻りました。その4日後、小林は黒田清綱(くろだきよつな)率いる鹿児島藩の兵児(へこ)組30人に抜刀せんばかりの勢いで逗留先に乗り込まれ、また大砲3台を曳いた大山綱良(おおやまつなよし)ら鹿児島の壮士100人による連日の北谷での発砲という威嚇にさらされ、小林は自身の使命がいかに厄介なものかを思い知らされます(『尾崎三良(おざきさぶろう)自叙略伝』『回天実記』)。小林らはいったん博多に戻り、福岡藩主による慰労の饗応で愚痴をこぼすしかありませんでした(「送迎解釈紀事」)。
小林がようやく五卿と面会できたのは8月17日で、6月に始まった長州再征が幕府側の失敗に終わった後のこと。小林は五卿の復官周旋を約束した上で臨みます。朝9時に二日市を発った小林一行は途中「新町の瓦屋」で休憩を挟み、昼過ぎ頃太宰府天満宮へ到着、初めて五卿との面会を果たしました(「幕吏小林甚六郎来宰日記」)。
五卿を正義と見る後の歴史では、小林は顔色を無くして逃げ帰った悪役として語られますが、京阪方面の情報収集が主な目的とはいえ、帰路、大阪までの守護を兼ねた同行の申し出が五藩からあったのは(「来宰日記」)、彼への同情を含めての配慮かと想像します。
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太宰府市公文書館 藤田 理子(ふじた まさこ)
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