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太宰府の文華~公文書館だより(108)~

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福岡県太宰府市

■古代大宰府の軍事的機能(2)~「新羅海賊」への対応~
以前、この欄で古代大宰府の軍事的機能として防人(さきもり)を取り上げました(令和4年12月号)。今回は平安時代初期のそれについてみてみましょう。この時期にはその兵力も含めて、大宰府の軍事的機能が大きく変わったと考えられるからです。
当時の国家兵力の中心は軍団兵士でしたが、延暦(えんりゃく)11(792)年には、諸国の軍団兵士が廃止されます。この時は大宰府など辺要の地は廃止から除かれていましたが、天長(てんちょう)3(826)年、ついに大宰府管内の軍団兵士も廃止され、その代わりとして統領(とうりょう)・選士(せんし)・衛卒(えいそつ)が設置されることになったのです。
ここで、大宰府が実際にこうした兵力を動員した事例をひとつ取り上げてみましょう。貞観(じょうがん)11(869)年、博多津(はかたつ)に「新羅海賊」の船2艘が来襲し、豊前国から都に貢納するために船に積まれていた絹・綿を掠奪(りゃくだつ)するという事件が起こりました。この時に動員されたのは、まさしく天長3年に設置された統領・選士でした。しかし大宰府からの言上によると、これらがあまりにも「懦弱(だじゃく)」(臆病で弱いこと)であったことから、それに代わる兵力として採用されたのが夷俘(いふ)(東北地方の蝦夷(えみし)の呼称のひとつ)でした。また、このことをきっかけに大宰権少弐坂上瀧守(だざいのごんのしょうにさかうえのたきもり)を大宰府に派遣し、警固(けご)を勾当させることとしました。さらにこの瀧守によって博多津にあった大宰府鴻臚館の軍備強化が図られ、また壱岐嶋の要請によって同嶋に武具の配備が行われるなどしています。東京大学名誉教授竹内理三(たけうちりぞう)さんによると、大宰府に「警固所」が置かれたのもこの時と考えられており、ここに大宰府を中心とする新たな「警固体制」が出来上がったと思われます。この警固体制は、寛平5(893)年から6年にかけて起こった「新羅賊」襲来の際にも基本的に引き継がれています。こうして、大宰府の新たな軍事的機能が形づくられたと考えられるのです。

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太宰府市公文書館 重松 敏彦(しげまつ としひこ)

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