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太宰府の文化財(459)

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福岡県太宰府市

■宝満山から彦山(英彦山)への峰入(みねい)り
太宰府市の北東にある宝満山は、我が国を代表する山岳信仰の遺跡として重要であることが認められ、平成25(2013)年10月17日の官報告示で国の史跡となり、本年で10年を迎えます。
この信仰の山は尾根伝いで他の信仰の山や祭祀が行われた寺社とつながりを持ち、中世から近世にかけては修験道(しゅげんどう)を専らとする山伏たちが、その間を往来する「峰入(みねい)り」と称する行事をおこなっていました。春には宝満山を出て三郡(さんぐん)山や若杉山(わかすぎ)を経て宗像の孔大寺(こだいし)山、玄界灘に面する織幡(おりはた)宮、香椎宮、筥崎宮から福岡城を経由し、高宮宮、春日神社、武蔵寺(ぶぞうじ)、安楽寺天満宮を通って宝満山に戻るルートで葛城(かつらぎ)峰(春峰(はるみね))と呼ばれていました。秋には宝満山を出て大根地(おおねじ)山、古処(こしょ)山、屏(へい)山、馬見(うまみ)山、小石原深山(こいしわらしんせん)宿、大日岳を経て彦山(ひこさん)(江戸時代以降は英彦山(ひこさん))に至り、帰りは筑豊の里を辿って宝満山に戻るルートで大峰(おおみね)(秋峰(あきみね))と呼ばれていました。
宝満山と彦山は九州での修験道の2大聖地とされ、彦山の山伏は春峰の行事として宝満山まで峰入りをして2つの山は修験道によって結びつきを持っていました。宝満山と彦山の間は全長約130kmで、往路75kmは峰から峰への険しい尾根路で72日をかけて勤行(ごんぎょう)や行(ぎょう)を山頂などの要所や聖地とされる場所で繰り返しおこない、帰路は里の道を3日で帰っていました。宝満山の中宮跡にある梵字磨崖(ぼんじまがい)仏の銘文に文保2年(1318)の年号があり、「法眼幸栄(ほうがんこうえい)十六度」と彫られており、16度の入峰(にゅうぶ)をした数とされています。宝満山と他所をつなぐ峰入りはこの鎌倉時代からおこなわれたいた行事であったことが知られます。
明治時代以降は神仏分離令や修験宗の廃止令を背景に宝満山から山伏が離山し、峰入りも途絶えましたが、明治22(1889)年に春峰が復興され、その後、昭和7(1932)年・13(1938)年・14(1939)年に宝満山から英彦山への峰入りがおこなわれ、その後、戦争が激しくなるとともに峰入りは再びおこなわれることはありませんでした。昭和57(1982)年に宝満山の山伏の子孫やこの山を修行の場とする修験者が宗派を超えて結集して「宝満山修験会」が結成され、毎年5月の第2日曜日に宝満山への入峰、5月の最終日曜日に竈門(かまど)神社での採灯護摩供(さいとうごまく)がおこなわれるようになりました。
竈門神社が開創1350年の祭典を行った平成25(2013)年に、満を持して宝満山修験会によって4月25日から28日の4日をかけて、約60kmの往路のみの行程で宝満山から英彦山までの峰入りが再興されました。その際には13人の山伏と、宝満山の史跡指定を同時におこなった筑紫野市と本市の教育委員会の職員が共同で記録のために随伴しました。ルートや行の復興は大変で、長らく行事が途絶えていたため古文書や地名などの考察から、何度も推考することが繰り返されましたが十分には解明できておらず、2つの信仰の山をつなぐ峰入りはまだまだ奥の深い行事であることが再確認されました。

※平成25年の峰入りは太宰府市公文書館紀要年報太宰府学17号(令和5年刊行)で報告しています。

文化財課 山村 信榮(やまむら のぶひで)

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