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太宰府の文華~公文書館だより(113)~

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福岡県太宰府市

■天野遠景(あまのとおかげ)と大宰府
元暦(げんりゃく)2(1185)年、源頼朝(みなもとのよりとも)は壇ノ浦(だんのうら)の戦いにて平氏(へいし)を滅ぼし、九州の統治に乗り出しました。九州は長らく平氏の重要な勢力基盤であり、滅亡後は頼朝と対立した弟の義経(よしつね)が、後白河法皇(ごしらかわほうおう)から九カ国の地頭に任ぜられたようです。頼朝率いる鎌倉幕府(かまくらばくふ)にとって、早急に勢力を確立する必要がありました。
そこで、頼朝の側近天野遠景が同年の末頃に九州に派遣されました。この天野遠景については以前に一度、「太宰府人物志資料室だより」(広報だざいふ平成25年2月号)で詳しく紹介済みですが、あらためて多少の付け加えをして取り上げたいと思います。
遠景は「鎮西奉行人(ちんぜいぶぎょうにん)」「鎮西守護人(ちんぜいしゅごにん)」等と呼ばれ、九州における幕府の出先機関としての役割を果たします。その主な任務は頼朝の指示を受けて、御家人(ごけにん)(頼朝と主従関係を結んでいる者)の動員・統率、領地の承認や御家人同士の争いの裁定、御家人による荘園への狼藉(ろうぜき)の取り締まりなどを実施することでした。このような職務を果たすために、遠景は既存の行政機関である大宰府を利用しています。ご存じの通り大宰府は、九州全域の統括と海外との交渉のために朝廷が設置した地方官庁です。関東からやって来た遠景は、この大宰府を掌握することによって現地の行政機能を手に入れたと考えられています。では具体的にはどのようにして掌握していたのか、研究者の間でも意見が分かれるところです。
ここで遠景が出した文書を見てみると、頼朝が出した文書を受けて、その内容を遠景が九州で実行する際に出したものが数点伝えられています。これは遠景が単独ではなく、府官(ふかん)(大宰府の役人)2人と連名で出している点が注目されます。つまり、遠景は独力ではなく実務能力のある府官たちの協力を得ることによって、頼朝からの命令を実行できていたと言えるでしょう。このような方法は、続いて来住する武藤(むとう)氏(少弐(しょうに)氏)に影響を与えていくことになりました。

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太宰府市公文書館 大塚 俊司(おおつか しゅんじ)

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