■武藤少弐氏(むとうしょうに)と御所(ごしょ)ノ内(うち)
九州を統括した行政府としての大宰府政庁跡は、発掘調査によると11世紀中ごろ以降には荒廃して終焉(しゅうえん)を迎え、その後、遺跡の集中する箇所は観世音寺周辺から現在の西鉄五条駅~太宰府天満宮周辺に移ります。なかでも、太宰府市役所のある観世音寺東側の字「御所ノ内」~「露切(つゆきり)」にかけての一帯は、瓦や石で舗装した道路やそれに並行する築地塀(ついじべい)、整地を伴った礎石建物、石敷きの基礎を持つ倉の跡が存在し、周辺の地域とは明確に異なる優位性を持ったエリアでした(図1)。特に「御所ノ内」地区は、銭を100枚単位で複数束ねた「さし銭」を埋めた埋納銭、中国産の磁州窯(じしゅうよう)系鉄絵壷やベトナム産の青華(せいか)大皿などの当時の国内ではぜいたくな品が多数出土しています。
「御所」の名称は地域を統括した人の住む場所の尊称と思われ、その主は、鎌倉時代に幕府が筑前に守護職(しゅごしょく)として派遣した武藤少弐氏や、南北朝(なんぼくちょう)時代に肥後の菊池(きくち)一族とともに大宰府で「征西府(せいせいふ)」と呼ばれる政務機関を樹立した懐良(かねなが/かねよし)親王ではないかと言われています。発掘調査で発見された立派な建物群やぜいたくな調度品は鎌倉時代~室町時代前半期の武藤少弐氏の全盛期のもので、御所ノ内の周辺の地名には「朝日」や「山ノ井」「横岳(よこだけ)」といった武藤少弐氏傍系(分家)の家名があることや(図2)、菩提寺である横嶽(おうがく)山崇福寺(そうふくじ)の寺域が御所ノ内の北奥にあることから、この場所に武藤少弐氏の本宗家の館と守護所があったのではないかと考えられます。
近年では、御所ノ内にあたる大宰府条坊跡第52次調査の出土品の整理作業で、興味深い遺物が見つかりました。幅5cmほどの滑石(かっせき)に「目結紋(めゆいもん)」と呼ばれる文様が刻まれていました(図3)。鎌倉時代の『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』には武藤少弐氏の旗印に目結紋が描かれており、出土遺物から御所ノ内と武藤少弐氏の関係が読み取れます。
この地域での発掘調査は非常に部分的なので、征西府のあった14世紀後半ごろなどを含む遺跡の全容はわかっていませんが、古代の行政府としての大宰府がなくなった後、中世太宰府の中枢となる施設があったといえる場所です。
文化財課 山村(やまむら)信榮(のぶひで)
<この記事についてアンケートにご協力ください。>