■天野遠景(あまのとおかげ)の後任をめぐって
本年2月号で触れましたが、天野遠景は建久5(1194)年ごろまでに九州を統轄する鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)の職を解任されています。その後、鎌倉幕府は誰を太宰府に派遣し、九州をどのように統治したのでしょうか。この問題については、古くから研究者の間でさまざまな異なる意見が交わされてきました。そこで、今回は3つの説を紹介します。
(1)中原親能(なかはらちかよし)説 遠景の後任として、中原親能が鎮西奉行に任命された説です。親能はもと京都の公家(くげ)で源頼朝(みなもとのよりとも)の側近となった文官です。京都の朝廷と幕府との交渉役を務めることが多く、遠景が解任された後も親能は京都にいて、太宰府には赴任していません。また親能には九州で遠景のような大きな権限はなかったという指摘もされています。
(2)武藤資頼(むとうすけより)説 遠景の後任は親能ではなく武藤資頼だとする説です。武藤氏はもと武蔵国(むさしのくに)(現東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の武士で、頼朝に従うようになって発展しました。資頼は建久(けんきゅう)6(1195)年以降に太宰府に移ったと考えられ、その頃から頼朝により筑前国(ちくぜんのくに)(現福岡県西部)・豊前国(ぶぜんのくに)(現福岡県北部~大分県北部)・肥前国(ひぜんのくに)(現佐賀県~長崎県のうち壱岐・対馬以外)・対馬島(つしましま)(現長崎県)の守護に任命されました。なお、資頼には、それらの国々に限らず、鎮西奉行に由来する九州全域に及ぶ権限があるという意見がありますが、その権限は遠景が持っていたものに比べると非常に小さく、鎮西奉行だった根拠にはならないという反対意見もあります。
(3)親能・資頼複数就任説 (1)(2)に対し、遠景の後任として親能と資頼が並び立つ形で鎮西奉行に就任した説があり、親能の後は養子である大友能直(おおともよしなお)とその子孫が引き継いだとされています。しかし、大友氏には九州全域に及ぶ権限はないとして否定する意見もあります。
このように、歴史は決して自明のことではなく、複数の説が唱えられて論争となり、なかなか決着がつかない場合もあるのです。
太宰府市公文書館
大塚 俊司(おおつか しゅんじ)
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