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太宰府の文華~公文書館だより(118)

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福岡県太宰府市

■天野遠景(あまのとおかげ)の解任
本紙の昨年9月号で紹介した通り、天野遠景は源頼朝(みなもとのよりとも)によって九州に派遣され、「鎮西奉行人(ちんぜいぶぎょうにん)」などと呼ばれ、頼朝の命令を現地で実行する出先機関としての役割を果たしていました。またそのために実務能力のある大宰府の役人の協力を得ていました。ここでは続いて、遠景がその後どうなったのかを取り上げたいと思います。
結末から言うと、遠景は建久(けんきゅう)5(1194)年頃までに解任され、関東に帰っています。それまでの間にどんなことが起きていたのか、紹介していきます。
文治(ぶんじ)2(1186)年の6月、遠景は筑後国瀬高庄(ちくごくにせたかのしょう)(現みやま市・柳川市)に非法を働き年貢を差し押さえたとして、領主の徳大寺実定(とくだいじさねさだ)から鎌倉幕府に訴えられました。これに対し頼朝は、速やかに止めるよう指示しています。
文治3(1187)年の9月には、遠景が無実の罪を言い立てて島津庄(しまづのしょう)(現鹿児島県~宮崎県)に使者を送り込んだと幕府に訴えられており、頼朝は今後遠景の使者が島津庄に入部することを禁止しました。またその前後と見られる5月に、島津庄に漂着(ひょうちゃく)した唐船(とうせん)とその積荷を大宰府の役人が強引に奪う事件が起き、領主の近衛家(このえけ)が幕府に訴えています。頼朝は遠景に元に戻すよう指示しており、恐らく遠景もこの件に関わっていたと思われます。
続いて遠景が九州を去った後の嘉禄(かろく)元(1225)年12月には、かつて遠景が宇佐宮(うさぐう)(現大分県宇佐市)造営費捻出のための税を九州管内の庄園や寺社に対し、新たに均一に賦課したことが記されています。そのため以前は免除されていた宗像社(むなかたしゃ)(現宗像市)は、その領主である八条院(はちじょういん)(鳥羽天皇(とばてんのう)の皇女(こうじょ))が天皇に訴えて、あらためて免除されたそうです。
このように遠景は、庄園領主である京都の貴族たちと何度も衝突し、幕府に訴えられていました。これは遠景の施政に対し貴族らが激しく抵抗したことを意味し、遠景解任の原因の一つになったと考えられています。

太宰府市公文書館 大塚 俊司(おおつか しゅんじ)

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