文字サイズ
自治体の皆さまへ

太宰府の文華~公文書館だより(120)~

31/47

福岡県太宰府市

◆父からの手紙―中川昌沢(なかがわしょうたく)書状―
4月から進学や就職のため実家を離れる人も多いでしょう。子どもの初めて一人暮らしとなると、送り出す親としては心配も一入(ひとしお)と思います。それは今も昔も変わらないようです。
公文書館が所蔵する中川家文書に、江戸時代末期、親元を離れて住込みの修業を送る息子に宛てた父親の手紙がまとまって残っています。
差出人の中川昌沢は、太宰府で医師として活躍した人物です。村内の産子(うぶこ)養育や天満宮社家中の種痘も担当するなど、太宰府の地域医療に力を注ぎました。中川家は3代続いた医家で、昌沢が4代目、昌沢の息子啓甫(けいほ)も医師になるための修業を始めます。住込み先は、福岡城下の通(とお)り丁(ちょう)(現在の福岡市中央区大濠公園あたり)にある福岡藩医の岸原養元(きしはらようげん)家。現在でこそ電車や地下鉄を乗り継いで1時間もかからない距離ですが、当時の移動は徒歩であり、さらに修業中ともなればそう頻繁に帰省もできません。そこで、近況伺いや用事、相談ごとには手紙を用いました。もちろん郵便制度がない時代のこと、博多方面へ所用で行く人に預け、急ぎ返信が欲しい時にはわざわざ人を送って手紙のやり取りをしました。そうした手間を惜しまず、父・昌沢は修業先で一人頑張っている息子に、たいそう細やかな手紙を送っています。
例えば、夏用の衣服を送ってやった時には「着古した着物はこちらへ送り返しなさい」、修業先に渡すための品物を送った時には「きちんとお礼を言ってお渡ししなさい」など、一言書き添えることを忘れません。特に用事がない時も、「お母さんが手紙を寄こすように言っています」「弟が本を持ち帰って欲しいそうですよ」など、家族の気持ちを筆にのせて、息子のもとへ届けました。時には医師として、藩医の元にいる息子に薬や専門書の入手の仲介を頼み、修業についてのアドバイスを送ることもありました。父であり、医師の先輩でもある昌沢からの手紙は、啓甫にとってうれしくも心強くもあったでしょう。20通余りの手紙が現在まで大切に残されていることが、息子の気持ちをよく表しているようです。

太宰府市公文書館
荻野(おぎの)寛美(ひろみ)

【バックナンバーはこちら】
ページID7241

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU