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太宰府の文化財(468)

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福岡県太宰府市

■観世音寺絵図
本市を代表する古刹(こさつ)である観世音寺(かんぜおんじ)には、さまざまな文化財が伝わります。その中に、かつての観世音寺の栄華をしのばせる絵図があるのはご存じでしょうか。縦162.1cm、横164.3cmの大きさの絵で、中央には講堂を中心として金堂と五重塔が向かい合い、講堂の北には巨大な僧房が描かれているほか、南は三蹟(さんせき)に数えられる小野道風(おののみちかぜ)筆とされる扁額(へんがく)が掲げられた鳥居から、北は日吉山王社(ひよしさんのうしゃ)(現在の日吉神社)まで描かれています。
この絵図が制作された年代には諸説ありますが、(1)大永(だいえい)6(1526)年に当時の観世音寺留守房別当清顕(かんぜおんじるすぼうべっとうせいけん)が元々あった絵図を幻世という号の絵師に書写させたこと、(2)承応(じょうおう)3(1654)年に表具が新調されたことが、旧軸木の墨書に記されています。大永年間というと、周防長門(現在の山口県)の戦国大名大内義興(おおうちよしおき)がこの地域を治めていました。この頃の観世音寺は、文明(ぶんめい)12(1480)年の飯尾宗祇(いいおそうぎ)著『筑紫道記(つくしみちのき)』に「諸堂(しょどう)・塔婆(とうば)・回廊皆跡(かいろうかいせき)もなく、名のみぞ昔の形見とは見え侍る」とあるように荒廃し、筑前国も大内氏と少弐(しょうに)氏の間で抗争が続いていました。絵図制作の同年には、兵火により社殿が焼失していた天満宮安楽寺(てんまんぐうあんらくじ)(太宰府天満宮)が復興のための徳政(手放した土地の無償返還)を大内義興に要求しており、観世音寺でも寺社造営の機運が高まっていたと考えられます。実際、絵図には大内氏が崇敬する筥崎宮の創建に関する縁起が描かれ、大内氏に対して寺の復興を願って書写されたとも言われています。
戦国の争乱の中での復興は叶いませんでしたが、江戸時代に観世音寺の講堂や金堂は再建され、この絵図も幾多の修理を経て現在に伝わります。観世音寺宝蔵の階段横には、実物大の複製が展示されています。宝蔵に立ち寄る際は、ぜひご覧ください。

文化財課
木村(きむら) 純也(じゅんや)

■観世音寺宝蔵の国登録文化財登録を記念して説明会を実施します
日時:5月18日(土)午前10時~正午
場所:観世音寺宝蔵前
申し込み:不要

問い合わせ:文化財課調査係
【電話】内線477

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