■大鳥居氏(おおとりいし)と菊池氏(きくちし)・大内氏(おおうちし)
ページID:7241
15世紀半ば、太宰府天満宮の現地のトップである留守職(るすしき)を務めた大鳥居氏の信善(しんぜん)・信顕(しんげん)・信堯(しんぎょう)三兄弟による家督争いには、筑後国(ちくごのくに)(現・福岡県南部)守護の菊池氏が関与していました。この争いについては昨年8月号で紹介しました。今回は大内氏の関与に注目してみます。
この文安(ぶんあん)年間(1444〜49年)の大鳥居氏家督をめぐる争いは、菊池持朝(もちとも)の裁定もあり、信堯が家督を継承することでいったん沈静化しますが、和解の際の取り決めを信堯が守らなかったことから信顕が反発し、家督争いが再燃します。この時、信顕は再び菊池氏を頼り、持朝の子・菊池為邦(ためくに)から直々に文書を受け取ることで、信顕に家督の地位が保証されました。
一方で信顕はそれに先立って、筑前国(ちくぜんのくに)(現・福岡県北西部)守護となった大内教弘(のりひろ)を頼り、家督の保証を得ていました。実際、博多に信顕側・信堯側双方の証人を招集して、大内氏による裁判が行われていたようです。さらに、大内氏の筑前の代官である守護代(しゅごだい)・仁保盛安(にほもりやす)と、菊池氏の筑後の代官である守護代・木野了幸(きのりょうこう)は連絡を取り合い、大鳥居氏の家督争いの裁定について相談し合っていました。
あくまで菊池氏は筑後国の守護であり、筑前国内に位置する太宰府天満宮の人事に直結する、大鳥居氏の家督争いを裁定することは、ある意味、越権行為ともいえることでした。そのため菊池氏は、友好関係にあり、かつ筑前国の守護となっていた大内氏に協力を仰ぎ、自らは大内氏の決定を追認する形をとったのでしょう。実際、これ以降の大鳥居氏に関わる権益を保証する主体は、いずれのケースでも大内氏となっています。大鳥居氏としても、天満宮での権益を守る上では、筑前守護の大内氏から権利の保証を受ける方がはるかに実用的であったでしょう。
以上のように、各武家権力の思惑の間で、天満宮をめぐる情勢は展開していました。そして、大鳥居氏ら天満宮の社家も、自らの権益を守るために、武家権力を利用していたのです。
元 太宰府市公文書館
兒玉 良平(こだま りょうへい)
<この記事についてアンケートにご協力ください。>