林内(はやしうち)隆二(りゅうじ)
(小学校英語専科教諭)
人権バンド・願児我楽夢(がんじがらめ)の活動の中で竪山勲(たてやまいさお)さんとの出会い
◇今回は「時の響きて」という曲の成り立ちです。
もう30年も前の話ですが、ある日長い長い文のファクスが送られてきました。送信してきた人は鶴ケ岡裕一さんでした。鶴ケ岡さんは鹿児島に住むキリスト教信者で国立ハンセン病療養所・星塚敬愛園に長年通い、入所者と交流しながらその人たちの思いの聞き取りをしてきた人でした。聞き取りした一人に竪山勲さんがいました。竪山さんは中学2年生で発病し、訳も分からぬまま星塚敬愛園に送られます。その日の朝、あぜ道を風呂敷包み一つでお父さんとタクシーの待つ十字路に向かいました。勲さんは「勲、もう行かなくていい」と言ってくれるのを期待して見上げますが、お父さんは顔を合わせようとしません。タクシーに乗り込み後ろの窓からお父さんの顔を見ると、その頬を大粒の涙がポタポタと落ちていました。それが勲さんとお父さんとの今生の別れとなりました。送られてきたファクスには竪山さんの思いを綴った詩が書いてあり、「これを曲にしてください」というのが鶴ケ岡さんの依頼でした。
かつてハンセン病は不治の病とされ、確立した治療法もないまま、隔離だけが唯一の方法とされてきました。1907年に明治40年法律第11号(通称「癩予防ニ関スル件」)、1931年に「癩予防法」の制定により、患者たちは強制的に収容され、本人も家族も世間の偏見にさらされ、人として生きる権利を奪われ続けて生きてきました。実は1943年にはアメリカでプロミンという特効薬が発明・実用化されていました。世界的にはハンセン病は完治する病気になっていたにもかかわらず、2001年に熊本地裁が「違憲国家賠償請求訴訟」に対して原告団勝訴の判決を出し、当時の政府が控訴をしない方針を出すまで、実に94年間にわたり「元患者」たちの人権を踏みにじってきたのです。
1998年に星塚敬愛園と菊池恵楓園の13人の入所者が元患者の人権復権を願って国家を相手取り、賠償訴訟を起こしました。高齢化が進んでいる元患者たちのために時間はかけられないと原告弁護団も頑張り、3年という異例の速さで原告の訴えを認めて結審しました。原告団の中心で闘い続けてきたのが、かつての中学生、竪山勲さんだったのです。
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