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ふるさと再発見 広川町郷土史研究会

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福岡県広川町

■学校と教育制度の変遷その4
~「教育勅語」の発布(はっぷ)と頒布(はんぷ)~

□「教育勅語」が生まれた経緯
事は明治23年(1800年)2月に開かれた、地方長官会議に始まります。ここで天皇直裁による教育方針の確立が求められたことに基因します。
井上毅が起草した原案に、元田永孚の意見も加えて修正し成立します。実はこの2人とも旧熊本藩出身者で、当時は政府の中枢での要職にあった人物です。発布は同10月30日でした。
「教育勅語」の特徴は、大臣の副署を伴わない形で発布されたことでしょう。このような形で発布されたものがいま一つ、「軍人勅諭」(明治15年1月4日)があります。
右のような形式が採用されたことから、すべての法令を超越する絶対的な位地づけになったといえるでしょう。
「教育勅語」の内容は、忠孝を核心にすえた、国民が実践すべき徳目を列記した上で、その普遍性が強調され、かつ遵守を求めています。
「勅語」の発布を受けて、文部大臣芳川顕正は「謄本ヲ作リ普ク之ヲ全国ノ学校ニ頒ツ云々」という内容の訓令を出し、捧読(捧げ持って読むこと)を求めます。
いつの時代にも、さまざまな異なる考えや意見があることは当然です。「勅語」が頒布されて71日後に、事件は起きました。
同24年1月9日のこと、その日に第一高等学校(現在の東京大学の前身)では、教育勅語奉読式が挙行されたのですが、同校教師でありキリスト教思想家でもあった内村鑑三が、最敬礼をしなかったことは不敬であるということで、国中から大ブーイングが起きて、結果として彼は一高教師の職を辞せざるを得なかった、という事件です。
この事件の影響もあったのでしょうか、同年6月17日に「小学校祝日大祭儀式規程」が制定されます。
この規程では「教育勅語」と並び、「御真影」(天皇と皇后の公式肖像写真)が、学校儀式に不可欠とされています。普段は奉安殿に厳重に奉安されている「勅語」と「御真影」が式典の場に移されていたのです。下広川小学校では解体(昭和46年ごろ?)される前の旧講堂のステージの背後に、ぶ厚い板戸のついた狭くて、奥行きの浅い部屋が残っていました。そこが奉安室(殿)の名残りでした。
「上廣川尋常高等小学校沿革史」によると、同33年2月11日に上広川尋常小学校が、御真影拝戴とあります。広川高等小学校の場合は、同31年11月22日拝戴が判明しています。下広川・中広川尋常小学校では日時の特定はできておりませんが、各校一斉にではなかったようです。
かくも重要視された「教育勅語」ですが、戦後の同23年6月19日の国会決議によって、失効・排除となりました。

■広川町古墳資料館だより
町内では、古墳時代後期(6世紀後半)の集落跡が調査されています。当時の竪穴住居跡を調査すると、屋根を支えた4個の柱穴や火力の強いカマドが見つかりました。
カマドには甕(かめ)を据えて熱湯を沸かし、その上へ底に穴の開いた甑(こしき)を乗せて穀物を蒸して食べていたようです。
しかし調査では、カマドの天井部分が落ちており、U字形の袖部分しか残っていませんでした。

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