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ふるさと再発見 広川町郷土史研究会

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福岡県広川町

■学校と教育制度の変遷 その6
~当時の小学校は授業料が必要だった~

○尋常小学校の誕生
明治23年10月7日の「改正小学校令」によって、従前の簡易科(かんいか)は廃されるとともに、従前の○○小学という呼称もなくなりました。
同25年4月1日からは、各校とも校名を改め、水原(みずはら)尋常小学校・久泉尋常小学校・広川尋常小学校と変わり、制度の上からも初めて小学校と呼ぶようになりました。
翌26年になると広川尋常小学校では、それまで通学区域であった太田村を分離したことから、下広川尋常小学校と校名を変更します。
同29年4月、中広川尋常小学校が設置され、時同じく上広川尋常小学校が、大字吉常728番地ほかに設置され、この時が中広川・上広川両小学校の創立元年とされています。知徳小学(明治6年)以来このかた、同じ場所で、歴史をつむいで来た下広川小学校とは、周年の数え方に23年の開きがあるのはこのためなのです。

○当時は授業料が必要だった
尋常小学校の授業料について、「下広川尋常小学校沿革史」から拾ってみますと、
徴集(ちょうしゅう)スルノ当初ヨリ明治二十四年度ニ至ル、一人ニ付金七銭ニシテ一家二人以上出校(しゅっこう)スル者ハ、一人本額(ほんがく)ヲ徴集スルノ外、凡(すべ)テ参(三)銭トシ、翌二十五年度ヨリ同二十六年度マテハ、一人ニ付金四銭宛(あて)ニシテ、一家二人以上出校スル者ハ、一人全額(ぜんがく)ヲ徴集スルノ外、凡テ半額ヲ減(げん)セリとあります。
同33年2月には、八女郡会(八女郡議会)の賛同が得られたことから、福島町(現八女市)に、八女郡立小学校准教員養成所(以後16年間にわたって続く)の設立をみます。
同年8月20日、「改正小学校令」によって、小学校の修業年限を、尋常小学校4年、高等小学校は2年・3年・4年となります。かつ尋常小学校4年は、義務となりました。
同9月には下広川尋常小学校に、裁縫科が設置されることとなり、1教室が増築されています。

○広川高等小学校の開設
明治31年4月、それまでの福島高等小学校(所在地、福島町大字本町字宮ノ河)から分離して、広川高等小学校が、中広川村大字新代前畑(旧中広川村役場が在った場所で、現在はJA八女の農機具センター)に新しく設置され、初代校長には川口廣人が就任しました。
地元での開設に伴い、入学希望者が増えるのは当然です。それまでは遠い者は2里以上、下広川村では宮みやもと本高等小学校(現久留米市大善寺)や水みずた田高等小学校(現筑後市水田)などへ、それでも1里以上の通学距離だったので、よほどの向学心がなくては就学は難しかったからです。

■広川町古墳資料館だより
吉野ケ里遺跡で石棺墓(せっかんぼ)が発見され、話題となりました。
副葬品や遺骸は見つかりませんでしたが、出土状況から有力者のお墓ではないかと考えられています。
広川町の太田地区の岩坪石棺では、2人の女性人骨と銅鏡・勾玉・管玉などが出土しており、もしかしたら弥生時代の終わりごろ、広川町にも卑弥呼のような巫女的役割をもつ人たちが、いたのではないでしょうか。

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