■学校と教育制度の変遷その12
~ララ援助物資と学校給食~
○戦後の食糧事情とララ物資
「学校給食実施の普及奨励について」という、文部・厚生・農林3省の事務次官通達(昭和21年12月)が出されて以降、戦後の困難な食糧事情のもと、経済的困窮と食糧不足から児童生徒を救済すべく、国は本格的な学校給食開始に取り組みます。
政府は米国に支援を求め、それに応えて最初に援助の手を差し伸べてくれたのはララ(アジア救済連盟)でした。ララによる寄贈給食は、同22年11月から始まり、順次地方へと拡大していきます。23年度まではララ中心の援助ですが、その後はユニセフ(24年度)、ガリオア(占領地域経済復興資金、25年度以降)と代わりながらも、援助そのものは継続します。
そもそもララ物資による援助が始まったのには、その当時米国に在留していた邦人、それと日系米国人の強い働きかけを抜きには語れません。
援助物資を積んだ第1船は、同21年11月に到着しています。以後27年度までに、船数458隻・金額的には400億円を超します。
このうち80億円は、在留邦人・日系人の援助によるとのデータもあります。
同23年に出された文部省体育局長通達は、「学校給食は教育の一環として実施し、直接には学童の体位の向上を計り、間接には栄養学的知識の普及により、家庭における食生活の改善を計るための教育事業である」と謳っています。
援助物資の中心は脱脂粉乳(だっしふんにゅう)で、それこそ多くの児童生徒の健康と栄養保持に、計り知れない貢献を果たしたことはいうまでもありません。
同25年ごろの給食メニューの一例は、コッペパンにマーガリンを塗り、飲むのは脱脂粉乳というものでした。
○下広川小学校が八女郡で最初に、完全給食(A型)を実施
同27年5月、下広川小学校が八女郡下でトップを切って、完全給食(ただし有償)を実施します。
同29年6月3日に公布された「学校給食法」によって、学校給食が義務化されます。
このことを受けて多くの学校で、給食設備の整備や給食棟などのインフラ整備に取り組むこととなります。
広川町では、同31年4月から、各小学校での完全給食を開始することとなりました。広川中学校での完全給食の実施は、同39年1月になってからのことで、そのころのメニューの一例はというと、コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、それに鯖(さば)の油揚げが出ています。
○広川町古墳資料館だより
1月に、装飾古墳を有する市町村の情報交換や整備状況を共有する「福岡県装飾古墳保存連絡協議会」が宮若市で行われました。開催地となった宮若市は、6世紀後半の壁画系装飾古墳の代表例である竹原古墳で有名です。
竜や馬、さしば、人物などが赤と黒で描かれた壁画は、高句麗壁画(こうくりへきが)の影響を受けています。
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