市内の歴史遺産のロマンを追いかけるシリーズ
十八.戦いの後に
寛永15年(1638)2月、兵糧攻めの結果、一揆軍が弱体化していると察した幕府軍は、2月27日、28日に総攻撃を仕掛けます。秋月藩は、原城の南西に設けられた大江丸・天草丸を攻略し、福岡藩と共に本丸へ攻め寄せました。総攻撃の結果、原城は落城し、城に立て籠(こ)もった3万7千人は、女性・子どもを含め悉(ことごと)く討死にしたと伝えられます。風紀が乱れがちな戦場において、長興は軍令を徹底し引き締めを行っています。一方で兵を労い、戦傷者を見舞うなど、将兵を大切にしました。秋月藩は、福岡藩と共に戦後処理を行い、4月に秋月に帰りました。長興は、家臣に手厚く恩賞で報いる一方、自らの功績を誇ることはありませんでした。秋月藩にとって初の戦いは、戦死者35人をだしたものの勝利に終わり、戦勝を記念して凱陣(がいじん)橋がかけられました。島原の乱以降、江戸幕府は鎖国政策を厳しくし、キリシタン弾圧を強めていきます。
【お詫びと訂正】広報あさくら令和6年1月号20ページ「あさくら歴史散歩」の黒田一成の名前の読みに誤りがありました。正しくは次のとおりです。お詫びして訂正いたします。【正】くろだかずなり【誤】くろだかずしげ
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