早いものでお正月が明けてもう2月です。
1月は「消防出初式」、「二十歳のつどい」に始まりました。消防団の凛々しい姿・行動、久々に会う添田町出身の若者達で、添田町大いに賑わいました。賑やかさを町内あちこちで持続しなければなりません。多くの人に添田町に来て見て知ってもらいましょう。
「谺(こだま)して山ホトトギス欲しいまま」英彦山でうたった好きな俳句のひとつです。杉田久女作です。「1890年(明治23年)5月30日生、鹿児島県出身。高浜虚子(きょし)に師事。夫の赴任地である福岡県小倉市(現北九州市)に移る。」久女さんは、住んでいた東小倉駅から度々一人で英彦山に登っています。その久女さんの随筆に「英彦山に登る」というものがあります。
当時(随筆年代は不詳ですが大正から昭和初期?)の英彦山を記しています。「私は今年英彦山に五六度登った。(略)彦山に一夏を過して、古老から彦山伝説のかずかずをきかせられ、或は絶頂の三山を高嶺づたいによじ、或は豊前坊から北岳の嶮をよじ、或は南岳の岸壁を下りて妙義にも比すべき巨岩の林立を谷間に仰ぎ等した私は、彦山というものにいつか異常な興味と親しみを見出す様になってしまった。」「彦山には雲仙程の雄大も、国際的なハイカラ味も近代的な設備もない。彦山は天狗の出そうな感じ、奇怪な伝説の山である。彦山を代表するものは山伏道と、かの平民毛谷村六助とである。彦山権現の御加護によってかたき討ちの助太刀をした六助の姿。まずこんなものの古くさい匂いが英彦山のかもす空気であろう。」
「三千八百坊が伽藍をつらねていたという名高い霊場も今はおとろえ切って、わずかに山腹の石段町に百余坊。それは皆山伏の末えいで、旅館になり、農になり或は葛根をほってたつきとしている。山坊の跡は石段が峰々谷々に今尚みちていて、田となり畠となり、全村には筧が縦横にかけわたされてそうそうのねをたてている。」読むと、今も当時と変わらない風情であるが、旅館等は廃業し今では更に衰え、住民は少なくなっている。
これまでもいろんな取り組みを行ってきました。その中で立ち上がったのが髙千穂秀敏宮司であり、地域住民であり添田町でした。添田町も歴史ある文化財等を活用すべきだとの方針から手を携え進めています。日本古来の神仏融合の復活だとして、英彦山神宮の髙千穂有昭禰宜の僧籍修行であり、山伏修行です。国・県・町の支援を受け英彦山神宮上宮の修復も行われています。添田町も英彦山神宮と共に、この衰えたと言われる「彦山」の復活を模索する中で、空き家と化している「宿坊」の復活を考えています。
久女さんはこの随筆で、彦山名物にも言及しています。「上宮では、(略)顔見知りの茶店の亭主は、すぐかまの下を焚き出した。ここから見る久住は一層すばらしい。私は禰宜さんと一緒にあつい番茶をすすり、六助餅をたべながら、霧氷の話を聞いた。」「天狗の住むという豊前坊の窟。鷹巣原の枯れススキ。とろろ汁。春は鶯谷の鶯。山ほととぎす。彦山葛。土の鈴。彦山名物はざっとこんなものである。」六助餅、とろろ汁、彦山葛は聞かない。土の鈴の英彦山がらがらは今もある。彦山名物、今は何が認知されているのだろうか。大いに情報発信していかなければならないと思った一日でした。
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