■御用日記に残る節分と鬼杉にまつわる伝説
2月の風物詩と言えば、節分の日に「鬼は外、福は内」と声を掛けながら、豆をまく姿が想い浮かべられるのではないでしょうか。今回は町に残る節分の歴史と鬼にまつわる伝承を紹介します。
いつの時代から豆まきが行われるようになったのかは不明ですが南北朝時代(1337〜1392年)の記録に節分の日に豆をまいていたことが記されています。「魔(ま)を滅(めっ)する」という語呂から豆をまき、新しい芽が出るのは縁起が悪いため炒った豆をまくと考えられていたようです。
町内に残る『御用日記※1』という古文書にも節分の日の様子が書かれています。それによると、厄払いとして豆腐田楽を食べ、大豆を歳の数ほど手に取り、それに一文銭を添え、頭や手足などにさすり、その大豆を夜中に町内の四つ角に落とした記述があります。
さて、節分の日に災いをもたらす「鬼」について英彦山にある国の天然記念物「鬼杉」には、その名の通り「鬼」にまつわる伝承があります。伝承によると、昔、鬼たちが英彦山へ住む場所を求めてやってきたそうです。英彦山の神様は困ってしまいましたが、なまけ者の鬼たちが一夜で家を建てることはできないだろうと考え、鬼たちへ「一夜で家を建てることができたら、英彦山に住むことを許してやろう」と伝えました。すると鬼たちはせっせと家づくりに励み、夜が明ける前には完成間近となっていました。驚いた神様は、竹の笠を両手に持ちバタバタと鳥の羽ばたきと、夜明けを告げるニワトリの鳴き声をまねしました。鳴き声を聞いた鬼たちは夜が明けたと思い、残念そうに英彦山から去って行ったそうです。その時、鬼の首領が山に刺した杉の杖が「鬼杉」になったと言われています。本来、節分とは立春、立夏、立秋、立冬など季節の変わり目の前日を指す言葉でした。かつては、季節の変わり目には邪気が生じその影響で体調が悪くなると信じられていたようです。暦の上では春を迎えますがまだまだ寒い日が続きますので、皆さんも体調管理に十分お気をつけください。
文/西山紘二学芸員(商工観光振興課歴史文化財係)
参考文献:『大庄屋中村家御用日記』添田町郷土史会編(昭和56年3月)
※1…江戸時代に大庄屋を務めていた中村武済が町内の出来事などを記録した日記
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