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直方の歴史と文化(第104回)

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福岡県直方市

■東蓮寺藩(のち直方藩)の歴史
第9回 二代之勝公と三代長寛公

◇黒田之ゆきかつ勝公、第二代東蓮寺藩主に
黒田高政公(1612~39)は十一月に江戸藩邸で急逝しました。
正室はいましたが子はなく、まだ若かったので養子の手続き(生前に幕府に申請して承認が必要)をとっていなかったため、跡継ぎのいない東蓮寺藩は法的には廃藩になるはずでした。
福岡本藩の第二代藩主黒田忠之公(高政公の兄)は自分の次男万吉(のち之勝と改名、高政公の甥)を没後養子とすることを幕府に申請して、1640年に特例と認められました。先年の島原の乱で家老が戦死するなど激戦の末に戦功をあげた東蓮寺藩勢の活躍を総帥として現地で目にした老中松平伊豆守(いずのかみ)信綱の口添えが大きかったと推測されます。
黒田之勝公(1634~63)はこのときわずか七歳でした。

◇黒田之勝公の時代
之勝公はやがて、従五位下(じゅごいのげ)、東市正(ひがしいちのかみ)の資格役職を与えられ、当時の慣習として将軍家光の日光東照宮参拝の際の江戸市中警固や、勅使下向の際の接待役を後の元禄時代の浅野内匠頭(たくみのかみ)と異なり無事務めました。

◇之勝公の逝去
之勝公は江戸の東蓮寺藩邸で逝去しました。高政公が二十八歳、之勝公が三十歳と二代続けて藩主が若死にしたことになります。
之勝公の墓は高政公と同じく江戸の祥雲寺(現在の東京都渋谷区広尾)、直方山部の雲心寺(高政公の墓の一段下)、博多の崇福寺にあります。
法号は「乾徳院殿高峯宗堅大居士(けんとくいんでんこうほうそうけんだいこじ)」で、逝去の直前に幕府(四代将軍家綱の時代)から殉死禁止令が出されていたため殉死者はいません。

◇黒田長寛公、第三代東蓮寺藩主に
之勝公には女子はいましたが跡継ぎとなる男子はなく、東蓮寺藩は再び断絶の危機を迎えましたが、前例と認められて今回も救われました。
三代福岡藩主光之公(之勝公の兄)の四男長寛公(1659~1711)の東蓮寺藩三代藩主就任が認められました。当時わずか五歳、叔父からまだ幼児の甥へ、という変則的な相続が二回続いたことになります。

◇東蓮寺から直方へ
三代藩主時代の大きな出来事は1675年に地名を「東蓮寺」から「直方」に改めたことです。理由には諸説ありますが藩主の早逝が続いたため「寺」の文字を避けて中国の古典の「易経」から良い文字である「直」と「方」を取ったとされています。

◇福岡藩四代藩主綱政公となる
福岡藩四代藩主となるべき嫡子の綱之が廃嫡されたため1677年に長寛公が直方藩主から呼び戻されて嫡子となり、綱政と改名しました。1688年に父光之公の隠居により福岡藩四代藩主となりました。
1711年逝去。博多の崇福寺に墓がありますが福岡藩主となったため、直方に墓はありません。

文 榊正澄

文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
【電話】25-2326

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