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直方の歴史と文化(第105回)

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福岡県直方市

■東蓮寺藩(のち直方藩)の歴史
第10回 第四代藩主黒田長清公

◇直方藩が復活し、長清公が藩主に
東蓮寺藩を直方藩と改称した第三代藩主の黒田長寛公は福岡本藩の事情により呼び戻されて嫡子となり、綱政と改名しました。
1688年、綱政公が第四代福岡藩主に就任した際に、藩主不在で本藩預かりとなっていた直方藩を復活させて弟の長清公(1667~1720)を第四代藩主としました。
東蓮寺藩・直方藩では通常の父→子ではなく、叔父→甥、叔父→甥、兄→弟という変則的な相続が三度にわたり続きました。

◇藩主館新設と城下町の拡大
復活した直方藩は一万石を加増されて五万石となり、石高にふさわしい藩主館を直方市体育館西側の現在住宅地になっている台地に新築し、付近の高台にあった妙見社は北側に移転して多賀神社と改称しました。
新しい館の南側に武家屋敷の「門前町」、その東側に町屋の「新町」ができ、従来の町屋は「古町」となりました。今日の直方の中心市街地は初代福岡藩主高政公の時に基盤が築かれ、長清公の時代にほぼ完成してその後は大きな災害もなく現在に至っています。

◇名君長清公
従五位下(じゅごいのげ)・伊勢守(いせのかみ)に任じられた長清公は江戸城普請手伝い、江戸神田橋御番などの幕府の役務を務め、福岡本藩においても病弱の兄綱政公を助けて藩政に関与しました。
1711年に綱政公が没し、福岡藩第五代藩主となった宣政(のぶまさ)公も病弱で藩主の務めを果たせないため長崎港の防衛にあたる長崎勤番という重要な役務につき、後に幕府の許可を得て福岡藩の藩主後見を務め善政を行って名君と呼ばれました。

◇文人大名長清公
長清公は一方で風流の道を愛する文人大名でもあり、直方藩内の文芸活動が盛んになりました。
女流俳人諸九尼の夫となった有井浮風(ありいふふう)は長清公の書記でしたが後に武士を捨てて俳諧師になりました。
長清公は内ケ磯の鳥野神社の桜や頓野の近津神社の紅葉を愛し、近津神社の拝殿右側に歌碑があり、水田(すいた)宮司の献上歌と長清公の返歌
千加津川岸のもみぢばこころあらば また来(こ)む秋の色なわすれそ
が刻まれています。

◇長清公夫妻の墓
多忙を極めた長清公は1720年に江戸の藩邸で逝去、54歳でした。法号は龍湫院殿前勢州刺史瑞林道翔大居士(りゅうしゅういんでんさきのせいしゅうししずいりんどうしょうだいこじ)です。
江戸の天真寺(東京都港区南麻布)と福岡市東区の崇福寺、高野山に墓があります。直方藩が廃藩となったため直方には墓はありません。
長清公の前正室は中津藩主小笠原家の息女で1696年に逝去、後正室は前正室の妹で、後の福岡藩第六代藩主継高公の生母で1706年に逝去。二人の正室の墓は天真寺、山部の雲心寺にあります。

文 榊正澄

文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
【電話】25-2326

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