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直方の歴史と文化(第100回)

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福岡県直方市

■東蓮寺藩(のち直方藩)の歴史
第5回 初代藩主黒田高政公その1

○初代福岡藩主・黒田長政公の遺言
黒田長政公(1568~1623)は関ケ原合戦での論功行賞により、豊前国中津十二万石から筑前一国五十二万石の大大名となり地名を福岡(黒田家の故地(こち))と改めました。
京都で逝去し遺言を残しました。直方市石炭記念館の入口前にある「直方碑」の現代語訳では次のように書かれています。
「領地を三つに分け長男忠之に本家を継がせ、三男長ながおき興には秋月五万石を与え、四男高政には四万石を与えて鷹取古城のあたりを治めさせよ。」
次男政冬の名が出てこないのは、他の三兄弟の母が正室栄えいひめ姫なのに対して母の身分が地元の豪族の娘であったためで、同じく遺言により現在の糸島地方に一万石を与えられたものの二年後に二十一歳で没しました。

○高政公の生母・栄姫
栄姫の実家は信州高遠の保科(ほしな)家。母が徳川家康の実母・於大の方の娘なので、家康の姪にあたります。
長政公の最初の正室糸姫は黒田官兵衛と同じ羽柴秀吉の家臣であった蜂須賀正勝の娘で、秀吉の養女として長政公に嫁ぎ一女を産みましたが1600年の関ケ原合戦の前に離縁され実家に戻りました。
栄姫は同年に伯父家康の養女として長政公の正室となり、前出の男子三人と女子二人を産みました。
江戸と福岡の菩提寺の他に、秋月にも初代藩主長興公が建立した大涼寺があり、栄姫の出家後の名と法号である大涼院にちなむものです。
栃木県の日光東照宮には栄姫が奉納した燈籠一対が残されていますが、これは大名の正室が奉納した唯一の燈籠とされ彼女の地位の高さを象徴しています。

○高政公の正室
高政公(1612~39)の正室は日向国延岡藩主有馬直純の娘です。直純は父晴信と同じくキリシタン大名でしたが後に改宗して家康の側近を務め、肥前国から日向国に移り、後に島原の乱にも出兵してキリシタン勢を討伐しています。
有馬家は徳川四天王の一人で猛将として名高い本多平八郎忠勝系本多家との深い縁戚関係がありました。この時代は長政公の二人の正室の場合と同様に大名家と大名家の婚姻は相互のつながりを強化するためのもので、秀吉や家康のような天下人の養女として箔をつけることが行われました。
直純は本多忠勝の孫娘を家康の養女として継室に迎えています。また忠勝の孫の政勝の正室は直純の娘、など関係が深いのです。
また直純は娘を政勝の従兄弟の政朝(まさとも)(自分の継室の兄弟で当時播磨国姫路藩主)の養女として高政公に嫁がせたことが藩政時代の直方を記録した「直方旧考」に書かれており、黒田家が有馬家を通じて徳川家譜代の名門本多家と縁戚を結ぶ効果を期待したものと思われます。

文 榊正澄

文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
【電話】25-2326 

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