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直方の歴史と文化(第102回)

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福岡県直方市

■東蓮寺藩(のち直方藩)の歴史
第7回 初代藩主黒田高政公その3

◇初代藩主時代の出来事
初代藩主高政公の短い藩主時代の中での大きな出来事は
一.藩主館を定め城下町を築いた。
二.島原の乱に出陣し戦功を挙げた。
の二つでした。

◇東蓮寺城下町誕生
大坂夏の陣の後に徳川幕府は諸大名の軍事力を弱めるため「一国一城令」を出して本城以外の出城を禁止しました。
筑前国でも「城」は福岡城だけで、秋月藩五万石・東蓮寺藩四万石の藩主の住居も城ではなく「館・陣屋」などと呼ばれましたが、便宜上、「城下町」と表記します。
藩主館は現在の多賀神社の東側、双林院付近に築かれ、続いて武家屋敷(現在の殿町一帯)、商工業者の町屋(現在の古町一帯)が造成されて城下町が誕生しました。
すなわち、現在の直方市街地の基本的な姿は四百年前に誕生した東蓮寺藩初代藩主高政公の時代に出来上がったことになります。

◇高政公の官職
初代藩主に就任したとき高政公は十二歳とまだ未成年であったため、福岡に留まり東蓮寺には着任しませんでした。
十五歳のとき従五位下(じゅごいのげ)に叙(じょ)せられ「東市正(ひがしいちのかみ)」に任ぜられました。四万石の大名相当の資格役職を朝廷から与えられたことになります。
東市正とは律令制における官職で京(みやこ)の東部官設市場を管理する長官ですが、(大岡)越前守、(浅野)内匠頭(たくみのかみ)などと同じく名目だけのもので意味はありません。
なお墓碑に刻まれた高政公の法号の中では「前東市令(さきのひがしいちのかみ)」となっていますが、命名した臨済宗の高僧が和名でなく唐名をつけたようです。

◇島原の乱に出陣し大活躍
高政公は二十三歳のとき初めて東蓮寺藩主館に入り本格的に藩主としての務めを始めました。
三年後の1637年から38年まで大坂夏の陣以後、戊辰戦争が始まるまで江戸時代唯一の合戦である「島原の乱」が起こりました。
高政公が率いる東蓮寺藩は福岡本藩・秋月藩と共に出兵し、家老が戦死するなど戦死者三十二人、負傷者百五十六人の損害を出しながら本丸一番乗りの戦功を挙げました。
輸送人足などの非戦闘員を含め約二千名が動員され、山部の西徳寺で出陣報告、上新入の高蔵寺(現在では鴨生田観音堂のみ残るが、当時は栄えていた)で戦勝祈願をしたと伝えられています。

◇高政公の兜と鎧
高政公所用の特徴ある兜(かぶと)と鎧(よろい)が東京国立博物館に所蔵されています。
兜は「一の谷形(なり)兜」と呼ばれ、父の長政公が関ケ原の合戦でかぶったことで有名です。鎧は「黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」と呼ばれます。
長政公と子孫の六代藩主継高公所用のものが福岡市博物館に所蔵されています。

文 榊正澄

文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
【電話】25-2326

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