第5回 亀井南冥(なんめい)
黒田長政が初代藩主となり、以降260年余りにわたって黒田氏が統治した福岡藩は、多くの優れた学者を輩出しています。江戸時代後期の儒学者・亀井南冥も、その一人です。
南冥は唐人町で医業の傍ら儒学を教える私塾を開き、36歳の時に藩の儒医になります。藩士の教育機関として東西2カ所に学問所が作られると、42歳で西学問所「甘棠館(かんとうかん)」の館長になりました。
甘棠館が開校して間もなく、志賀島で金印が発見されます。金印を鑑定し、いち早くその価値を見いだした南冥の名は全国に知れ渡りました。
寛政2(1790)年に寛政異学の禁が出され、朱子学が重んじられるようになると、50歳で館長の職を追われます。その後、甘棠館は火災で焼失し、廃校となりました。
南冥の仕事は息子や孫に受け継がれ、亀井門下からは高場乱(おさむ)らが巣立っていきました。
高場乱の教育は、自由民権運動に関わった玄洋社にも影響を与えます。後に玄洋社は広田弘毅など、多くの政治家を輩出しました。
南冥が全盛期を過ごした甘棠館は、現在の唐人町にありました。今は西学問所跡の碑が建っています。
東学問所「修猷館」は現在の赤坂一丁目にありました。甘棠館廃校後は、修猷館が藩士教育の中心機関となりました。
問い合わせ:区企画振興課
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