■其の百八
日本遺産の世界 in 筑紫野
基肄(きい)城―大宰府を守る南の防衛
福岡県と佐賀県にまたがる基山は、登山などで自然と親しむことができる場所となっていますが、かつて国家間の緊張関係の影響を受けて「城」が築かれたことをご存知でしょうか。
西暦663年に、百済救援の戦い(白村江の戦)で唐・新羅に敗れた倭(日本)は、国土防衛のため急きょ古代山城を築きました。特に朝鮮半島に近い九州北部では、重要拠点である「大宰府」の北には水城と大野城を、南には基肄城を築き防衛体制を整えます。この基肄城が築かれたのが基山です。
奈良時代に成立した『日本書記』には、664年に水城が、665年に大野城と基肄城が、百済から来た人々の指導のもとで築かれたことが記されています。
これまでの調査で、水城や大野城は朝鮮半島由来の高度な土木技術を活用していることが知られており、同時に築城された基肄城も同様であったと考えられます。基山の山内を巡るように築かれた城壁は土や石で築かれており、4カ所に城門が設置されていました。城内には約40棟の礎石建物跡が建てられており、食糧の貯蔵などにも使用されていたようです。このうち筑紫野市側には、北帝門と東北門の二つの城門跡が残っています。
現在でも基山山頂からは、遠くに海を望むことができます。侵攻を受けた場合、最前線になるであろう大野城や基肄城の兵士たちは常に緊張感にさらされ、生きた心地がしなかったでしょう。
結果として侵攻を受けることはありませんでしたが、国家間の緊張関係が生み出した「場」がここにはあったのです。
※日本遺産の詳細は、ホームページで閲覧できます。
問合せ:文化財課
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