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ふるさと歴史発見

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福岡県築上町

■第一三九回 香春街道(かわらかいどう)と環翠池亭(かんすいちてい)
香春街道は築上町宇留津と下築城の境界近くに建つ道標(写真)を起点に上築城を通り、上別府から弓の師にかけて県道椎田勝山線に並走する江戸時代の道です。築上町を出ると天生田(あもうだ)(行橋市)、新町(みやこ町勝山)を経て、七曲(ななまがり)峠(田川郡と京都郡をつなぐ仲哀(ちゅうあい)トンネルの北側)を越え、田川郡香春町に至る全長二十五キロメートルの道のりで、その香春宿で秋月街道や日田街道に接続しました。
文政十年(一八二七)、一人の女性が香春街道経由で築上町弓の師を訪れました。原采蘋(はらさいひん)(一七九八―一八五九)です。彼女は秋月藩の藩校「稽古館」の教授、原古処(はらこしょ)の長女で、兄二人の身体が弱かったこともあり、幼い頃から学問に励み父親の期待を一身に受けて育ちました。
父親と行動を共にする中で福岡藩の儒学者、亀井南冥(かめいなんめい)・昭陽(しょうよう)をはじめ多くの文化人と交流しました。漢詩人・教育者として知られる咸宜園(かんぎえん)(大分県日田市)の広瀬淡窓(ひろせたんそう)(一七八二―一八五六)は「采蘋は幼い時から読書文芸を学び、最も詩に長けている。その行動は堂々として、男子と少しも変わらない。またよく大酒を飲む」と評しています。また、景勝地「耶馬渓」の命名者、頼山陽(らいさんよう)(一七八一―一八三二)は采蘋の漢詩を「先がとがって鋭いが、弱くはない」と評します。
文化八年(一八一一)、秋月藩の政変の影響で藩校を辞職した父と共に九州山口の裕福な知識人の間を巡り、詩や書を教える旅に出ました。このときの経験が後に人生の大半を旅に費やし、全国の著名な文化人と交流する采蘋の生き方を方向づけたようです。
さて、彼女が弓の師を訪れた文政十年は一月に父親が亡くなり、六月に江戸に向けて単身旅に出ました。秋月から秋月街道と香春街道を通り、巌邑堂(がんゆうどう)(みやこ町勝山岩熊)で亀井南冥・昭陽の門人、藤本平山(へいざん)や水哉園(すいさいえん)(行橋市稗田)の村上佛山と交流し、弓の師にあった環翠池亭をめざしました。環翠池亭では医師、宇野玄珉(げんみん)のもと、兄の原白圭(はっけい)(一七九四―一八二八)が療養しながら人々に学問を教授していました。この旅をまとめた采蘋の『東遊日記』にはこのときの兄の病状が悪いことが書かれ、「去らんと欲して去るに忍びざるの情ありて、暫く留まりたるか」とその気持ちが記されます。結局、岩熊と弓の師を往復しながら四十日余りを過ごしました。その間に村上佛山や采蘋の弟の瑾次郎(きんじろう)も訪れ、環翠池亭の主人、宇野玄珉とともに「築城の海に遊んだ」といいます。当時、築城基地はなく、弓の師から海辺まで歩き、漢詩を詠んだのでしょうか。
(文化財保護係 馬場克幸)

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